『 ~千年までと願う子の成長~ 七五三 』
今江 美和子
霜月十五日は鬼の寝る日
十一月十五日は七五三である。
子供の健康と成長を祝う行事で、現在も盛んに行われている七五三は、もともとは、
徳川幕府三代将軍 家光の四男 徳松(のちの五代将軍綱吉)の身体が虚弱だったので、
五歳の祝いを慶安三(1650)年十一月十五日に取り行ったのがはじめといわれている。
十一月十五日という日について考えてみたい。まず、この日がどんな日かを解き明かしていくことにしたい。
昔の暦にはいろいろな暦法があり、それぞれ吉凶が記されてあったが、その中に「きしく」という暦注がある。「きしく」は「鬼宿日(きしゅくにち)」のことで、鬼宿は二十八宿の二十三番目の宿で「よろずよし、ただし婚礼には忌むべし」という日である。
江戸時代初期に使われていた暦は唐からもたらされた宣命歴(せんみょうれき)で、宣命暦では月の宿命と朔日の宿名が同じであった。
宣明暦では、インドの宿曜経にもとづいて、牛宿を除く二十七宿が用いられていた。
角、亢、氏、房、心、尾、箕、斗、(牛)、女、虚、危、室、壁、奎、
婁、胃、昴、畢、觜、参、井、鬼、柳、星、張、翼、軫
二十七宿は、一日ごとに一つずつ宿がずれるので、下記の表に見るように、月日に対して宿名が一定していた。たとえば、中秋名月八月十五日は、八月一日角宿から十五番目だから婁宿となり、栗名月九月十三日は九月一日氏宿から十三番目なので婁宿となる。そのため、鬼宿は月によって一定の日となる。
たとえば正月は一日が室宿であるから、そこから十一番にあたる鬼宿は十一日となり、九月は氏宿から始まるので二十日となる。十一月は一日の斗宿から十五番目が鬼宿となるので十五日となる。
鬼宿は南方を守る霊獣・朱雀の目とされ、鬼宿日は二十七宿の中で最も良い日であるため、二十七宿のうち唯一つ、暦注に「きしく」と記されたのである。大安吉日の元祖といえよう。
宿曜経の“本家”インドでも鬼宿を尊んでいる。
春四月八日、月は鬼宿に滞在していた。摩耶がルンビニーのアショカ樹園に行き、
その花に手を触れようとしていたとき、釈迦が母の脇腹から生まれた。そのとき蓮華が
花開き、天から甘露が降ってきたという(潅仏会の甘茶は甘露に由来している。) 紀元前四六三年四月八日、釈迦の誕生日のことである。その日が鬼宿であったため、インドでは鬼宿を最善の宿としている。
古来より田の神は、春には山から降りて田畑を護り、秋には山に帰るという信仰があった。春には稲の生育を神に祈願し、秋には稲の豊穣を感謝する。
十一月十五日、この日は霜月の祭りである。満月の冴えわたる冷たくすがすがしい日、一年の労働から開放された喜びの日であった。また、徳川時代に徳松のために行われた霜月の祭も鬼宿日である。その上「将軍」という権威が重なって、鬼宿日は祝日とするには最も適した日だったのである。こうして十一月十五日が七五三の日と決められたのである。
宣命歴は唐の徐昂が編修したもので、日本では聖和天皇の貞観四(八六二)年から渋川春海の貞享歴が採用された貞享元(一六八四)年まで、八二三年間にわたって用いられた。貞享歴以降は、二十八宿を用いて年月日を二八周期で一巡するので、鬼宿日は一定の日にはならないことに注意する必要がある。
「七五三」は、子供の成長の節々に厄災に対する抵抗力をつける、子供の歳祝いである。奇数がめでたい数であり、また体調の変わる年齢でもあるので、七五三として子供に成長を自覚させ、同時に親も過保護の戒めとした。
「七五三」の祝はめでたいから祝うのでなく、祝うことによってめでたくする信仰である。
「七つ前は神の子」「七つ未満忌服なし」「悼(とう)(七歳)は罪ありとも刑を加えず」などという言葉があるように、古くは七歳までは社会の一員と認めず、罪も咎められず、喪に服することもなかった。七歳になって氏子入りすると、生存権が認められ、罪も問われ、本葬も行われた。現在、学校教育が七歳から始まるのも同じ原理であろう。
現在の七五三の日には、なぜお宮参りをするのだろう。子供が成長していく過程で、社会の一員として共同体に立派に参加できるようにと願って神に祈るためである。
現在の七五三の祝いは、美しく着飾って神社に詣で、千歳飴をぶらさげて帰る程度のものになったが、江戸時代以来の本来の七五三の意味をもう少し考えてみよう。
髪置 三歳の男女が前髪をのばす儀式である。生まれて三歳ごろまでは、髪を剃るの
が一般の風俗だったので、髪置とは新たに髪型を整えることである。
頭頂部の髪を丸く残して結び、周りを剃り落とすのが子供の髪型であった
髪置きのときには綿帽子と言って白い綿を頭の上にのせ、白髪頭になるまで長生
きするようにと祈った。このとき白髪綿をかぶせる人を髪置親という。
三歳になると「紐落とし」といって、着物の付け紐をとり、魂が外に飛び出さ
ぬようにと付け帯をした。また短い一つ身の着物から長い三つ身の着物に替えるの
で「三つ身祝い」ともいう。
袴着 五歳の男児が初めて袴をはく儀式である。五歳を「童」というので、童子になる
祝いである。袴の腰を結ぶ人を袴親といい、名望家がえらばれる。
また袴着のとき、子供は冠をつけて基盤の上に乗り四方に向かって神に祈った。
人生勝負の場として基盤に乗り、どちらを向いても勝つようにとの願いである。
冠をのせる人は冠親といい、生涯の庇護者であり、保証人ともなる人で、名誉も
地位もある人がえらばれた。
帯解 七歳の女児が付け帯を解いて大人の帯をしめる儀式である。付け帯をとり八つ口
をふさいで小袖を着せ、幅の広い帯をする。魂を内にしっかりとどめ、身をもちく
ずさぬようにとの願いがこめられている。帯を贈るのは親代わりになれるような
女性で、帯親という。
髪置親、冠親、帯親など、親以外の者が親という名で子供にかかわることで、とかく
過保護になりがちな親子関係に冷静な判断が加わることになる。やっと一人歩きするころ
の三歳、なんでも自分一人でしたがる五歳、社会に仲間入りする七歳を、数でとらえて祝
うことによって、自覚とよりよき成長を願う節目が七五三であるといえよう。
千歳飴 七五三で神社に参拝した帰り、子供が引きずるように長い袋を嬉しそうに下げて
いる。松竹梅や鶴龜をあしらった袋には、紅白の棒飴が入っている。飴のどこを切
っても金太郎の顔が出てくるものもある。めでたずくめの千歳飴は、宝永の頃
(1705〜1710年)、江戸浅草で、豊臣残党の一人、平野陣九郎重政が甚右衛
門と改名して飴屋となって始めたものといわれている。
【 感 想 】
『七五三』と言って思い出すのは、七歳の七五三の時、神社に出かけて帰って来た際に、身に付けていた七五三の小道具一式を道すがら一つ一つ落としてきて、自宅に帰った時には、着ていた衣装だけだったことである。親からは呆れられたが、私も悪気があったわけではなく、どうしようもなかったことを今でも思い出す。
私には子供がおらず、そのような身支度をする機会もないが、未来を託す子供がいたなら、さぞかし、楽しかったであろうと思う。
七五三のレポートをまとめて思うことは、親でいるのは大変だろうが、子供にしてあげられる事を思えば、かけがえのない事のように思う。
世界を見渡せば、幸せな子供ばかりではなく、恵まれない子もいると思うが、どんな子供時代を送ったとしても、自分の力で自分の幸せを掴み取って欲しいと思う。
Коментарі