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1月のしつらい  節分

更新日:2023年2月4日





『春立つ光は年のはじめ ・・・ 節分』                           


                            今江 美和子


                                    

 一年を二四等分する

 

 節分とは季節の分かれ目のことである。季節には春夏秋冬の四季があり、それぞれの季節の分かれ目、すなわち立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。それが立春正月の思想によって一年の始めを立春とするため、いつの頃からか立春の前日の節分だけが強調されるようになり、その日が一年の境目と考えられるようになった。

 

 そもそも正しい季節を示すために暦に作られた目印を二十四節気といった。

 太陰太陽暦では暦の上の月日と季節が食い違いをおこすので、暦の月日とは別に、農事に必要な季節の標準を示す必要があったからである。

 一太陽年を二四等分して、太陽が最も低く昼間の最も短い冬至から始めて、一年を二四分割した分点を二十四節気とした。

一年は365.3422日であるから、冬至から始めて15.2184日ごとに時点を設け、その時点を含む日を二十四節気とした。


 一つおきに「節」と「中」を設け、四季を春夏秋冬と定めてそれぞれ立春、立夏、立秋、立冬よりその季節が始まるとしたのである。

 節から次の節の前日までを節月といい、節月は次の通りとなる。


   正月 立春から啓蟄の前日まで    七月 立秋から白露の前日まで

   二月 啓蟄から清明の前日まで    八月 白露から寒露の前日まで

   三月 清明から立夏の前日まで    九月 寒露から立冬の前日まで

   四月 立夏から芒種の前日まで    十月 立冬から大雪の前日まで

   五月 芒種から小暑の前日まで    十一月 大雪から小寒の前日まで

   六月 小暑から立秋の前日まで    十二月 小寒から立春の前日まで


「節」はこうして季節の標準となり、節月を設ける役割を担っている。現在の気候から見るとおよそ岩手県の気候と合致するような感覚であるが、中国において周王朝によって華北の気候状況にあわせてつくられた美しい言葉が、2,000年以上も長く現在までも生きているのは素晴らしいことである。

                   



 朔を一日とすることを中国で履端於始といい、正しい季節を中気にあわせて中気で月名をきめることを挙正於中といった、そして余分の日数をまとめて閏月とすることを拳正於

中といった。紀元前六二六年のことである。

 こうして、正月とは「中」雨水を含む月であり、「節」立春から正月が始まるという立春正月思想が生まれたのである。

 以上述べた二十四節気の定め方を平気法(または常気法、恒気法)といい、紀元前七世紀頃、中国で開発されて、中国で最初の暦といわれる漢の太初暦(紀元前一〇四年)から清の時憲暦(一六四五年)まで二千数百年にわたって使われてきた。日本では持統天皇の時代の元嘉暦(六九二年)から江戸末期の天保暦(一八四三年)まで用いられてきたのである。

 長い歴史によってふみかためられた立春正月思想は、次のような季節感として受け入れられてきた。

   春 立春から三月晦まで 

   夏 立夏から六月晦まで

   秋 立秋から九月晦まで

   冬  立冬から十二月晦まで

 季節はそれぞれの「節」に始まり、暦の上のそれぞれの晦日で終わり告げるように感じとられていたのである。


立春」の基準


 季節を知るための指標は二十四節気である。そして、生きとし生けるものが生まれ出てくるのは春であるという思想、それは冬眠からさめる動物、新しく芽を吹き出す植物、そして人が寒い冬から開放されて暖かい明るい春になって活動を始めるという実生活と結びついている。

「春立つ」というのは一年の始めになるということで、正月を意味する。「春」のフランス語Printemps、スペイン語のPrimaveraというのは、最初の時という意味である。また英語のSpringやオランダ語のSprongには、跳ねると言う意味もある。

 立春思想はそのまま受け継がれながら、二十四節気の定め方は、現在では平気法によらず、定気法によっている。

 平気法から定気法へ二十四節気の制定法が変わっても立春思想に影響はなく、季節感にも変化はおこらない。


なぜ節分に豆をまくか


 立春思想によって、冬から春の折り目として、立春の前日を節分として一年のしめくくりをする行事が行われている。


 節分の夜、豆撒きをする。                         

 豆まきの風習は、日本では室町時代に始まったもので、中国から伝わった追儺の儀式に由来すると思われる。追儺は「鬼やらい」ともいい、疫病や災害を追い払う行事で、中国では紀元前三世紀の秦の時代にすでに行われていた。疫病や陰気、災害は鬼にたとえられ、鬼を桃の弓や葦の矢、また戈(ほこ)と盾とで追い出すことであった。


 遣唐使に依ってもたらされた追儺の風習は、文武天皇の慶雲三(七○六)年に疫病が流行して百姓が多数死んだので、鬼やらいを行ったことが知られている、その後民間でも次第に行われるようになって、文徳天皇(八五○年代)の頃より行事化したという。


鬼のルーツを陰陽五行に探る


 節分には欠かせない“憎まれ役”として登場する「鬼」とは何かを考えてみる。

節分の夜、新しい春を迎えるために、家のすみずみから鬼を追い出すが、鬼とはもともと不自由の寒気であり、疫病であった。すなわち「人に災いをもたらす、目に見えない隠れたもの」が鬼であり「隠(おに)」と呼ばれていたのである。

陰陽説とは、天地万物すべて陰と陽とから成り立っているという二元論である。世の中の事象はそれだけが独立した形で世界ができており、陰陽が交互に消長を繰り返しながら新たな発展を生んでゆくという考え方である。


 五行説というのは、木・火・土・金・水という五つの気があり、万物はそれぞれ気の性質を持ち、それが互いに結合し、循環することによって新しい現象を生みだすという考え方である。


 五行説によると、火木金土水がこの順に並んでいる関係、つまり「木火」「火土」「土金」「金水」「水木」の関係はそれぞれ相生といって互いに助け合う良い関係、木火土金水が一つおきに(木土水火金)並んでいる関係、つまり「木土」「土水」「水火」「火金」「金木」の関係は相剋といって互いに殺し合う悪い関係とされている。また、同じ五行は比和関係といい、善悪なしという。


十二支  子  丑寅  卯  辰巳  午  未申  酉  戌亥(子)

方位   北  東北  東  東南  南  西南  西  西北(北)

五行   水  土  木  木 火  土  金  金 (水) 

関係   相剋 相剋 比和 相生 相生 相生 比和 相生


 また、東北方面だけが両隣の方位に対して相剋になっていることがわかる。このため東北方向を、人が嫌う恐ろしい鬼の来るところとみなし「鬼門」と呼ぶようになったのである。

こうした発想も『山海経(さんがいきょう)』という中国の書物に、人を悩ます鬼が東北の度朔山という山に住んでいるという話が書かれていることに由来するようだが、この逸話を生んだ背景にあるのも五行思想なのである。こうして五行相剋を一手に引き受けて想像の世界で生みだされたのが「鬼」である。


 恐ろしい鬼は、東北の方角にいる。東北は十二支の丑寅の方角に当たるので、鬼は牛と虎の特徴を背負わされた。つまり、牛のような角、虎の大きな牙、そして虎の皮のふんどしである。

 五行説によって生まれた鬼のイメージを最初に描いたのは当時代の呉道子で、以来われわれもおなじみの、あの独特な鬼のスタイルが定着したといわれる。

 「鬼」とは最初は隠れて目に見えない陰性のものであったが、五行説によって具象化され、目に見えるもの、恐ろしい怪物のイメージが定着した。日本では古くから死者を穢れと恐れの両面から見る発想があり、それがいつの間にか恐れだけが優先して目に見える怪物の像を作り上げたが、「陰」とは寒さであり、病気であり、貧しさであり、平和を乱す一切のものであって、そのシンボルが鬼だということができよう。


 鬼門を忌み嫌う風潮は、現在でも家相などといって、家を建てる時などにみられるが、歴史的に有名な鬼門除けがある。

 平安時代に京都に都を移した折、京都御所の東北にあたる比叡山に延暦寺を建てて、京の都の平穏を祈った。また江戸時代に江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てて、

江戸の安泰を願った。


 ちなみに「鬼」は英語でdemon, devil, fiend, goblin, ogre, gnome などいろいろあるが、具体的なイメージは、はっきりしないようである。

【感想】      

 『鬼』といって思い浮かぶのは、TBSのアニメ番組の『日本むかし話』で見た様々な鬼たちである。本当の鬼を目撃することがあれば、慌てふためいて、そう落ち着いてはいられないであろうと思う。

今年初めての授業に、初めてのレポートと気が引き締まりました。


山本先生のお話と皆様とのやりとりを楽しみに、一年、励んで参りたいと思います。

今年一年もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

                  


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