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2月のしつらい  上巳の節句

更新日:2023年4月11日





『幸を祈る春の祭典 ・・・ 上巳の節句』                           


                            今江 美和子


                                    

 

 

 三月三日は、華やかに雛人形を飾って女の子の健やかな成長と幸せを祈る行事を行う日で、上巳の節句、桃の節句などという。

 上巳とは、はじめの巳の日という意味で、三月は辰月であるから辰に縁の深い巳の日を忌日として、災厄からまぬがれ、また不浄を除くための祓えを行った。中国では踏青といって古くから除災の風習があり、川辺に出て青い草を踏み、川の流れで禊を行い、酒をくみ交わして穢を祓ったのである。秦の昭王が踏青の折、酒杯を川に流したとき金人が秦の前途を祝したという故事にならって、踏青は曲水の宴へと発展した。


 上巳の節句が三月三日になったのは、重日思想によるもので、辰の月春三月が固定されて、数字を重ねることによって、より強力な神の力が得られるとしたものである。

                  

右と左ではどちらが上か。

 現在、男雛は右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に飾ってあるが、関西の京風で は古式にならって男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)、と逆になっている。

 左か右か。

左上位か右上位かを考えると、中国では戦国時代に兵事及び車上のみは例外として左を優先していたが、他の全ては右優先の風習であった。漢の時代になって統一されて右上位となり、漢語に表れる意味はすべて右上位である。


 「右」には「貴い」「大切な」などの意味があり、右(大切で便利なもの)、

右姓(貴い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(最も信頼している部下)、右に出る(他よりすぐれている)などの語がある。

 一方「左」は「いやしい」「低い」などを意味し、左遷(官位を下げること)左(いやしいこと)、左傾(心安らかでないことから急進的な思想)、左前(物事が順調に行かなくなること)などがある。

 例外として左を虚しくす(車上では左を貴ぶので左の席を空けること)があるが、これは賢者を尊ぶ札である。また、左言(道理に反した言葉)、左道(邪道)などの「左」は「そむく」「たがえる」の内容を持っている。

 その後、六朝の混乱期を経て唐の時代になって上下が逆転し、左上位となった。日本の文化は唐の文化に影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となった。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。

 文化面でも、上手は左(客席から舞台に向かって右)、下手は右(向かって左)となっている。


 内裏雛の話に戻すと、東福門院が娘 興子の幸せを祈ってつくった座り雛は、男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に描かれてある。興子内親王は天皇になられたので、女帝は上位であるために、女雛が左(向かって右)に座っている。これは唐制になった左上位思想の表れである。この左上位の風習はそのまま現代に引き継がれて、男性優位のため、関西では京風の内裏雛は、向かって右に男雛、向かって左に女雛が並んでいる。


 ところが関東式の内裏雛は、向かって左が男雛、むかって右が女雛である。

現代の結婚式の披露宴をみても、高砂の席に新郎は向かって左、新婦は向かって右に座っている。日本の結婚は古来より男子主体の家督相続的なものであるため、男子優先で行われてきた。結婚式に新郎が向かって左に立つということは、実は右に位置することであり、男子優先とすれば右上位ということになる。それでは関東式の内裏雛や現代の結婚式などは、右上位ということなのだろうか。


 昭和三年十一月十日、昭和天皇が京都御所で即位の御大礼をあげられた際の写真が新聞に掲載されたが、そのときは天皇が右(向かって左)、皇后が左(向かって右)に立たれていた。

事情のあることだったのだろうが、古式はここに終わりをつげることになった。天皇神聖の時代を背景として、それ以来男子が右(向かって左)、女子が左(向かって右)という形が                          成立したのである。もっとも明治七年、新年の儀式が宮中で行われた際の写真が発刊されたばかりの新聞に載ったが、明治天皇は西洋式を採用され、向かって左に座っておられる。西洋式は右優先だからである。

 

 また、明治二十三年二月十一日(紀元節)に小学校に御真影が下賜されたが、明治天皇は向かって左に、皇后は向かって右になるように写真が置かれている。大正天皇、昭和天皇・皇后の御真影もこれにならっている。文明開化という時代の流れとともに、皇室中心主義の政策から生まれたものといえよう。

 しかし、現在のような関東式の内裏雛の位置=男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に定着したのは、昭和になってからのことである。

 おもしろいことに、昭和二十年、第二次世界大戦直後、連合軍司令部のマッカーサーによって、男雛は向かって右、女雛は向かって左に、つまり西洋式にするよう指令をうけたという。女性優先の考え方に従って女性を大切にせよという意味からだといわれている。

 結論として、唐制にならった左上位の古いしきたりはそのまま京風として温存され、昭和御大典以来それに則ったというのが関東風ということができよう。


「桃」の字の不思議な聖性      

上巳の節句は桃の節句といわれる。桃がちょうど盛りの頃で桃色の美しさを愛でる意味もあろうが、「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔除けの信仰があった。

「桃」は兆に木偏がついた会意文字であり、兆と同じ音を持つ形声文字でもある。

中国で昔、狩猟民族が天意を占うときに、亀の甲や獣骨に占い字(卜辞)を刻んでそれを火にあぶると、甲羅や骨にひび割れができる。そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などの言葉からもわかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。


「桃」は兆しを持つ木とされて、兆しを持つ木は未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でも梨太郎でもなく、桃太郎でなければならないのである。なお、桃太郎が二つに割れた桃の中から生まれてくるのも「兆」の字が「割れ目」を意味するからである。


また、桃は春早くから花を開き多くの実を結ぶ、多産な木である。二つに割った桃の実は女陰に似て、聖なる呪い要素を持っている。聖なる多産な桃が凶を払い魔を防ぐことによって、女の子の末永い幸を祈る行事が桃の節句だといえよう。

                   


【 感 想 】

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 子どもの頃から親しんできたお雛様に神聖な願いが込められていることを知り、

眺める時の思いも変わる気がしてまいります。


 菜の花は、二年前に亡くなった義妹のために供えました。

義妹も共に祝いたかった雛祭り。

三月三日にしまう時まで、充分に眺め、楽しませていただきたいと思います。


今月も誠に有難うございました。

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