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6月のしつらい  嘉祥菓子

更新日:2022年6月1日



嘉祥菓子   和菓子の起源と楽しみ方


                                今江 美和⼦ 六⽉⼗六⽇は「和菓⼦の⽇」

かつて和菓⼦が主役をつとめていた⾏事が 6 ⽉ 16⽇にありました。

その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) ると

もいわれますが、はっきりしておりません。

室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。

また武家の間では、この⽇に楊⼸ (ようきゅう) という短い⼸⽮で的を射て、

負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った

⾷べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ⾳が、勝に通じることから

武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶⻑ 8 年 (1603) 、征夷⼤将軍となって江⼾幕府を開いた徳川家康は、戦国時代を

終わらせ、戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。

幕府を開く以前の元⻲ 3 年 (1572) 、家康に最⼤の危機が訪れます。


甲斐 (現在の⼭梨県) の武⽥信⽞が上洛の軍をおこしたのです。 家康は、三⽅ケ原 (浜松市の⻄⽅) において信⽞の軍勢を迎え撃ちました。

結果として⼤敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織⽥信長の

ために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三⽅ケ原の戦いは、記念すべき⼤敗した合戦でした。  「嘉定私記」によれば、三⽅ケ原の戦いの前、⽻⼊⼋幡にて戦勝を祈願した 家康は、

裏に「⼗六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家⾂の⼤久保藤五郎

(おおくぼとうごろう) は⼿製の菓⼦を献上したといいます。

この故事にちなんで嘉祥は、江⼾幕府でも盛⼤に⾏われました。

江⼾城⼤広間 500畳に 2 万個をこえる⽺羹や饅頭などの菓⼦が並べられ、

将軍から⼤名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が⼿ずから菓⼦を与えるのは

最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、⼤名・旗本は⾃ら菓⼦を取りました。

 ⼆代将軍 秀忠 (ひでただ) までは、将軍 ⾃ら菓⼦を与えたので数⽇、肩が痛かったとのことです。ちなみに家康に菓⼦を献上した⼤久保藤五郎は、後に主⽔(もんと)を名乗り、

幕府の御⽤菓⼦屋となり嘉祥に深く関わっています。 


 明治以後、嘉祥の儀式は廃 (すた) れてしまいました。

 昭和 54 年 (1979) 、全国和菓⼦協会では嘉祥の⾏われた 6⽉ 16⽇を和菓の⽇と定め、

さまざまな⾏事を⾏っています。  また、⻁屋では幕末頃に御所へお納めした七種類の嘉祥菓⼦をはじめ、

嘉祥饅頭や嘉祥蒸⽺羹を販売しています。  これは、江⼾時代に盛んになった⾏事「嘉祥(かじょう、嘉定とも)」にちなんだもの。その⽇は和菓⼦を⾷べて厄除け招福を願うとか。 「和菓⼦で厄除け」と聞くと以外に思えますが、実は元々、ひな祭りや端午の節句と同じ用に親しまれてきたものとか。  毎年、この⽇には、東京・⾚坂にある⽇枝神社で「⼭王嘉祥祭」が⾏われ、東京和菓⼦商⼯業共同組合の技術者が「菓⼦司」として神前にて和菓⼦(煉切)を作り、奉納。 全国各地の和菓⼦屋さんで嘉祥にちなんだお菓⼦を販売しています。 ⼀体、「嘉祥」とは? そしてこの⽇のための和菓⼦にはどんなものがあるのでしょう。

⾷べ物を贈り合う⾵習

 「⻁屋⽂庫」は 1973 年(昭和 48 年)に創設された、⻁屋にあるお菓⼦の資料室です。古くから宮中の御⽤を務めてきた⻁屋に伝わる、歴代の古⽂書や古器物なども収蔵。

⼀般公開はされていませんが、和菓⼦についての様々な疑問にもお答えいただけます。


まずは「和菓⼦の⽇」の由来となった⾏事「嘉祥」について、⽼舗和菓⼦屋の

⻁屋さんに関する資料収集、調査研究を⾏っている、「⻁屋⽂庫」でのお話によると…

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⻁屋⽂庫: 「嘉祥」の起源は諸説あり、はっきりしたことはよくわかっていないのです。

     「嘉祥」とは「めでたいしるし」という意味。

 

     江⼾時代の百科事典「和漢三才図会」によると、「847年(承和 14 年)、

    朝廷に⽩⻲が献上されたことを吉兆とし、仁明天皇が 6 ⽉ 16 ⽇に「嘉祥」と

    改元、「群⾂に⾷物などを贈った」とあります。


    「室町時代、公家では嘉祥の⽇に⾷べ物を贈り合い、武家では楊⼸(ようきゅう)               

    の勝負をし、敗者が勝者に嘉定通宝 16 ⽂で⾷べ物を買ってもてなすという⾵習が

    ありました」


     嘉定通宝とは中国のお⾦で、当時、⽇本でも流通していたもの。

    「嘉(か)」「通(つう)」が勝つに通じることから、公家の間で縁起が良いもの

    として尊ばれていたのだそう。


   「嘉祥」と「嘉定」をかけて、招福を願っていたのかもしれません。


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⼤広間に並ぶ 2 万個のお菓⼦


「嘉祥」の⾵習が盛んになったのは江⼾時代のこと。

宮中では天皇が公家などにお⽶を与え、公家たちはこのお⽶をお菓⼦に替えて

献上していました。


 また、幕府でも盛⼤に⾏われ、多い時には江⼾城の⼤広間に 2万個を超えるお菓⼦が並べられ、将軍から⼤名や旗本に配られていたそうです。



『嘉祥菓子』和菓子の起源と楽しみ方
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