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  • 2023年2月3日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年2月4日





『春立つ光は年のはじめ ・・・ 節分』                           


                            今江 美和子


                                    

 一年を二四等分する

 

 節分とは季節の分かれ目のことである。季節には春夏秋冬の四季があり、それぞれの季節の分かれ目、すなわち立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。それが立春正月の思想によって一年の始めを立春とするため、いつの頃からか立春の前日の節分だけが強調されるようになり、その日が一年の境目と考えられるようになった。

 

 そもそも正しい季節を示すために暦に作られた目印を二十四節気といった。

 太陰太陽暦では暦の上の月日と季節が食い違いをおこすので、暦の月日とは別に、農事に必要な季節の標準を示す必要があったからである。

 一太陽年を二四等分して、太陽が最も低く昼間の最も短い冬至から始めて、一年を二四分割した分点を二十四節気とした。

一年は365.3422日であるから、冬至から始めて15.2184日ごとに時点を設け、その時点を含む日を二十四節気とした。


 一つおきに「節」と「中」を設け、四季を春夏秋冬と定めてそれぞれ立春、立夏、立秋、立冬よりその季節が始まるとしたのである。

 節から次の節の前日までを節月といい、節月は次の通りとなる。


   正月 立春から啓蟄の前日まで    七月 立秋から白露の前日まで

   二月 啓蟄から清明の前日まで    八月 白露から寒露の前日まで

   三月 清明から立夏の前日まで    九月 寒露から立冬の前日まで

   四月 立夏から芒種の前日まで    十月 立冬から大雪の前日まで

   五月 芒種から小暑の前日まで    十一月 大雪から小寒の前日まで

   六月 小暑から立秋の前日まで    十二月 小寒から立春の前日まで


「節」はこうして季節の標準となり、節月を設ける役割を担っている。現在の気候から見るとおよそ岩手県の気候と合致するような感覚であるが、中国において周王朝によって華北の気候状況にあわせてつくられた美しい言葉が、2,000年以上も長く現在までも生きているのは素晴らしいことである。

                   



 朔を一日とすることを中国で履端於始といい、正しい季節を中気にあわせて中気で月名をきめることを挙正於中といった、そして余分の日数をまとめて閏月とすることを拳正於

中といった。紀元前六二六年のことである。

 こうして、正月とは「中」雨水を含む月であり、「節」立春から正月が始まるという立春正月思想が生まれたのである。

 以上述べた二十四節気の定め方を平気法(または常気法、恒気法)といい、紀元前七世紀頃、中国で開発されて、中国で最初の暦といわれる漢の太初暦(紀元前一〇四年)から清の時憲暦(一六四五年)まで二千数百年にわたって使われてきた。日本では持統天皇の時代の元嘉暦(六九二年)から江戸末期の天保暦(一八四三年)まで用いられてきたのである。

 長い歴史によってふみかためられた立春正月思想は、次のような季節感として受け入れられてきた。

   春 立春から三月晦まで 

   夏 立夏から六月晦まで

   秋 立秋から九月晦まで

   冬  立冬から十二月晦まで

 季節はそれぞれの「節」に始まり、暦の上のそれぞれの晦日で終わり告げるように感じとられていたのである。


立春」の基準


 季節を知るための指標は二十四節気である。そして、生きとし生けるものが生まれ出てくるのは春であるという思想、それは冬眠からさめる動物、新しく芽を吹き出す植物、そして人が寒い冬から開放されて暖かい明るい春になって活動を始めるという実生活と結びついている。

「春立つ」というのは一年の始めになるということで、正月を意味する。「春」のフランス語Printemps、スペイン語のPrimaveraというのは、最初の時という意味である。また英語のSpringやオランダ語のSprongには、跳ねると言う意味もある。

 立春思想はそのまま受け継がれながら、二十四節気の定め方は、現在では平気法によらず、定気法によっている。

 平気法から定気法へ二十四節気の制定法が変わっても立春思想に影響はなく、季節感にも変化はおこらない。


なぜ節分に豆をまくか


 立春思想によって、冬から春の折り目として、立春の前日を節分として一年のしめくくりをする行事が行われている。


 節分の夜、豆撒きをする。                         

 豆まきの風習は、日本では室町時代に始まったもので、中国から伝わった追儺の儀式に由来すると思われる。追儺は「鬼やらい」ともいい、疫病や災害を追い払う行事で、中国では紀元前三世紀の秦の時代にすでに行われていた。疫病や陰気、災害は鬼にたとえられ、鬼を桃の弓や葦の矢、また戈(ほこ)と盾とで追い出すことであった。


 遣唐使に依ってもたらされた追儺の風習は、文武天皇の慶雲三(七○六)年に疫病が流行して百姓が多数死んだので、鬼やらいを行ったことが知られている、その後民間でも次第に行われるようになって、文徳天皇(八五○年代)の頃より行事化したという。


鬼のルーツを陰陽五行に探る


 節分には欠かせない“憎まれ役”として登場する「鬼」とは何かを考えてみる。

節分の夜、新しい春を迎えるために、家のすみずみから鬼を追い出すが、鬼とはもともと不自由の寒気であり、疫病であった。すなわち「人に災いをもたらす、目に見えない隠れたもの」が鬼であり「隠(おに)」と呼ばれていたのである。

陰陽説とは、天地万物すべて陰と陽とから成り立っているという二元論である。世の中の事象はそれだけが独立した形で世界ができており、陰陽が交互に消長を繰り返しながら新たな発展を生んでゆくという考え方である。


 五行説というのは、木・火・土・金・水という五つの気があり、万物はそれぞれ気の性質を持ち、それが互いに結合し、循環することによって新しい現象を生みだすという考え方である。


 五行説によると、火木金土水がこの順に並んでいる関係、つまり「木火」「火土」「土金」「金水」「水木」の関係はそれぞれ相生といって互いに助け合う良い関係、木火土金水が一つおきに(木土水火金)並んでいる関係、つまり「木土」「土水」「水火」「火金」「金木」の関係は相剋といって互いに殺し合う悪い関係とされている。また、同じ五行は比和関係といい、善悪なしという。


十二支  子  丑寅  卯  辰巳  午  未申  酉  戌亥(子)

方位   北  東北  東  東南  南  西南  西  西北(北)

五行   水  土  木  木 火  土  金  金 (水) 

関係   相剋 相剋 比和 相生 相生 相生 比和 相生


 また、東北方面だけが両隣の方位に対して相剋になっていることがわかる。このため東北方向を、人が嫌う恐ろしい鬼の来るところとみなし「鬼門」と呼ぶようになったのである。

こうした発想も『山海経(さんがいきょう)』という中国の書物に、人を悩ます鬼が東北の度朔山という山に住んでいるという話が書かれていることに由来するようだが、この逸話を生んだ背景にあるのも五行思想なのである。こうして五行相剋を一手に引き受けて想像の世界で生みだされたのが「鬼」である。


 恐ろしい鬼は、東北の方角にいる。東北は十二支の丑寅の方角に当たるので、鬼は牛と虎の特徴を背負わされた。つまり、牛のような角、虎の大きな牙、そして虎の皮のふんどしである。

 五行説によって生まれた鬼のイメージを最初に描いたのは当時代の呉道子で、以来われわれもおなじみの、あの独特な鬼のスタイルが定着したといわれる。

 「鬼」とは最初は隠れて目に見えない陰性のものであったが、五行説によって具象化され、目に見えるもの、恐ろしい怪物のイメージが定着した。日本では古くから死者を穢れと恐れの両面から見る発想があり、それがいつの間にか恐れだけが優先して目に見える怪物の像を作り上げたが、「陰」とは寒さであり、病気であり、貧しさであり、平和を乱す一切のものであって、そのシンボルが鬼だということができよう。


 鬼門を忌み嫌う風潮は、現在でも家相などといって、家を建てる時などにみられるが、歴史的に有名な鬼門除けがある。

 平安時代に京都に都を移した折、京都御所の東北にあたる比叡山に延暦寺を建てて、京の都の平穏を祈った。また江戸時代に江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てて、

江戸の安泰を願った。


 ちなみに「鬼」は英語でdemon, devil, fiend, goblin, ogre, gnome などいろいろあるが、具体的なイメージは、はっきりしないようである。

【感想】      

 『鬼』といって思い浮かぶのは、TBSのアニメ番組の『日本むかし話』で見た様々な鬼たちである。本当の鬼を目撃することがあれば、慌てふためいて、そう落ち着いてはいられないであろうと思う。

今年初めての授業に、初めてのレポートと気が引き締まりました。


山本先生のお話と皆様とのやりとりを楽しみに、一年、励んで参りたいと思います。

今年一年もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

                  


  • 2022年12月20日
  • 読了時間: 7分




『三元の頭の朝に神迎え ・・・ 元旦と人日』                           


                            今江 美和子


                                    

 元旦とは、そもそも一年のはじまりとして、

正月の満月の夜、年神さまを迎えて旧年の豊作と平穏とを感謝し,

あわせて今年の豊作と平和とを祈念する日であった。


 これは旧暦の正月十五日にあたり、太陰太陽暦(天保暦)を廃止して、

太陽暦(グレゴリオ歴)が採用されて現在に至っているが、昔のしきたりも

また伝承されて、現在一月十五日には、(旧元日とは一致しないし、

また満月かどうかもわからないが)「小正月」として、今もなおお祝い事を

催している地方が多い。


 のちに唐の暦法を採用して、年の始めの日を元旦というようになった。

元は「はじめ」であり、旦は「日の出、朝」の意味である。

「年」「月」「日」のはじめを「三元」といい、三元の日の朝が元旦なのである。



年神を迎えることば


 元旦には年神を迎える。

「とし」(年(ねん))は「稔(とし)」であり、稲穂が実り熟すことを祈りつつ念ずる意から、稲穂が実って一順する期間を「年」と言ったのである。


 年神は作神としての性格が強く、五穀を司る神と考えられている。

一方、陰陽家が歳徳神といって人間の世界に来訪する神霊を年神とした。

年神は元旦に恵方から来るという。


 日本の伝承による御年神は、陰陽道の歳徳神と合体し、さらに祖先の霊が加えられて、年神という新たな霊魂に統一されたと考えられる。年神の霊魂はみずみずしい活力に満ち、生命ある人間に再生産の力を与え、人間を新たな息吹で復活させるのである。旧年の物忌みが明けて、新しい霊魂を迎えるにあたって、その霊魂に対して祝福の言葉を捧げる。

「おめでとうございます」と。


 それは魂を賛美する言葉であり、神への祈りであり、全身全霊で神を迎える

心の叫びといえる。

 

 元旦に交わす「おめでとう」の挨拶は、相手の人間に対して言うのではなく、

新たな歳に迎えられた年神を讃える言葉として交わされるものなのである。

こんな意味を考えながら、「新年おめでとう」と言い交わすとき、また「謹賀新年」

「賀正」などと記すとき、改めて新鮮な気持ちを味わうことができるのではないだろうか。


恵方を詣でる


 元旦には年神を迎える。

その年に年神が宿る方角は縁起の良い方角とされていて、

その方角を「恵方」という。

 恵方は明きの方、兄方、天徳などともいわれ、その方向に向かっていくと、

年神によって福が与えられるという。家の中では「恵方棚」といって恵方に神棚を設け、

年神に農作を祈る。

 今日、初詣が盛んに行われているが、初詣はそもそも「恵方参り」に由来するもので、その年の恵方にあたる神仏に参拝して、来たる年の豊穣と家内安全を祈願するものであった。現在では恵方の感覚がなくなり、単に有名神社に参拝するのが恒例になった。なお、昔は元旦のみに限られていたものが、現在では正月三が日に参拝しても初詣というようになった。


「節供」と「年玉」


 正月には年神を迎える。

年神を迎えるために供え物をして神に安らぎを与え、その代償として年神から新しい魂が分け与えられる。


 神への供物が「節供(せちく)」であり、神から与えられる魂が「お年玉」である。

そもそも節供とは、神の到来する節の日に神に供える供御のことであった。やがて中国の「節」が日本の折り目の観念と結びついて特定の年中行事を意味するようになり、さらに

現在では三月三日の雛祭り、五月五日の端午の祭りをいうようになった。



 節とは神祭りの日をいう。その日はハレ(晴)の日であり、心を豊かにして仕事を休んで神を祭り、一日を安らかに神とともに送る折り目の日である。ハレに対して、ケ(褻)の日は仕事にいそしみ、生産に、育児に励む。ハレの日こそ神に感謝し、神に祈る日であった。

 

 正月が最も重要な節の日であるため、年神に備える料理を「節供料理」というように

なり、縮まって「おせち」となった。


 大晦日の晩は年の夜といって新しい年のはじめであり、家中がこぞって祝いの膳につき、年神に捧げた神供と同じものを神の前で食べる。この神人共食が神への誓いと祈りにつながっていく。神と人とが同じ屋根の下に休み、同じ食膳につくことが新しい活力を生みだす原動力となるのである。


 お年玉とは、年神から与えられる魂である。

人々は神に供御を供えた代わりに年神から魂を与えられ、それを身体の内におさめることによって生きる証としたのである。年玉は年魂であり、年頭にあたって今年精一杯生きる活力を生み出す手形であった。


 神の贈り物、生きる証の活力、新しい魂は鏡餅として象(かたど)られた。

したがって鏡餅は、年神の御神体として正月行事の中心に位置するのである。


本来、年玉を授けるものは年神であった。しかし、年神によって家長に与えられた魂という年玉が親から子へ、あるいは主人から使用人へと与えられるように習慣が変わって行き、現在では金銭や物品として正月に送られるものをお年玉というようになった。


 私たちの祖先が精一杯生きてきた歴史の中でいろいろな習慣がつくられてゆくなかには、心のこもった味わいの深い物が多いのに気がつく。いかにより幸せに生きるべきかという神への切なる願いが至るところに込められていて、それが長いあいだの伝承となって現在のしきたりをつくっているのである。



                

もともとは薬だったお屠蘇


 正月には屠蘇を飲む。

 屠蘇は肉桂、山椒、大黄、白じゅつ、桔梗、細辛、乾姜、防風などを三角の紅のきぬ袋に入れて酒や味醂に浸したものである。屠蘇とは鬼気を屠絶し人魂を蘇生させるということで、一年中の邪気を払って延命長寿を願うために飲む酒である。


雑煮と餅にまつわる話


 正月の食事は雑煮からはじまる。

餅はハレの日の食事であった。年越しの夜に神を迎えて、年神に捧げた神供をともに食べ(相嘗(あいなめ))ることによって、神と人とがよろこびをともにするのである。神に捧げた供御をいただいて、聖なる火で煮炊きして神とともに食事する、それはハレの日の膳であり、直会(なおらい)の膳である。神供の餅を神人共食することによって神の霊をいただくのである。雑煮はその名の示すように、雑多に具を入れて煮込むものであるが、餅のほかに青菜を加えるのが特徴である。「名をあげる」に通ずるからである。

 雑煮を食べるときは、柳の白木で少し太めにつくった柳橋を使う。

 柳は枝が水につかっているので、水の霊気に清められているというわけで、聖木とされている。また「家内喜」にかけてめでたいという。聖なる柳箸によって邪を払い、一年の息災を祝うのである。


三つ肴はお節料理の基本


 正月元旦の膳、年神を迎えて神とともに祝い、神に幸を祈る膳がお節料理である。

「三つ肴」または「祝い肴」といって、この三種でお節料理を代表するものがある。

三は完全を意味して、全体を一つにまとめる働きをしている。

 三つ肴とは、関東では黒豆、数の子、五万米をいい、関西では黒豆、数の子、たたき牛蒡をいう。



縁起のよい組み合わせ


松に鶴

 鶴は一本足で立つので、その姿を想像してギリシャ文字のΦ(ファイ)がつくられ、また鶴が空を行列をつくって飛ぶ様子から、ギリシャ文字Λ(ラムダ)が考えられたといわれる。鶴は端正な姿から神秘的な鳥、吉祥の鳥と考えられ、亀とともに長寿と健康のシンボルとされている。


梅に鶯

 鶯は春告鳥とも言われ、春に先立ってなく姿は、梅の一輪と共にさわやかに明

るい春を告げる。梅に寄るうぐいすは、実は梅にたかる赤だにを食べに来るので、

風流味は全くないが、春にことよせた声と香のとりあわせは見事である。


竹に雀

 まさに一対格好の画である。雀は死ぬまで飛びはねる習性があり、躍動とリズムがあるので竹の成長力とともに人を元気づけてくれる。清楚なとり合わせである。雀は晩秋になると海辺でさわぐので、海に入って蛤になると考えられた。七十二候の中に、「雀入大水為蛤」とある。蛤はその貝が他の貝とは決して合わないことから貞操のしるしと考えられているので、純潔のシンボルである。


鶴と亀

 「鶴は千年、亀は万年」といわれて、鶴や亀が長寿のめでたいしるしと考えられていることについて述べると、それは、インドの古典でヒンドゥー教の聖典といわれるマハーバーラクに記されている物語に由来している。

 アク−パーラーという亀はヒンドゥー教で言う原初の亀で、地球を支えていると考えられていたものである。また亀のナーディージャンガは、アク−パーラとともに湖に住んでいたので、ともに長寿のシンボルとされているのである。


人日の節句

 正月七日は人日(じんじつ)といい、五節句の行事の一つで、七日正月ともいわれる。

六日を六日年越し六日年取りといって、七日を折目として年改まる日と考えた。      





【感想】


『「お年玉」とは、年神から与えられる魂であるという。

年玉は年魂であり、年頭にあたって今年精一杯生きる活力を生み出す手形であった。』とあるが、そう考えると、年の初めに誓いを込めて願うと本当に願いがかたちになるような

気がしてまいります。


今月の盛り物は、新しい年への希望を込めて、 『初夢』を提出させていただきます。 今年一年、誠にありがとうございました。

来る一年もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。







  • 2022年11月23日
  • 読了時間: 7分




『 陰から陽へ、 一陽来復 ‥‥‥ 冬至祭』                           


                            今江 美和子


                                    

冬至点を測る


 冬至とは、天文学では太陽の中心が冬至点(黄道上で春分点から270度離れた点)を通過する現象およびその時刻をいう。現在のグレゴリオ暦では、だいたい12月22日に起こる。一年中で太陽が天の赤道よりも南に離れるために、北半球では太陽の正中高度が最も低くなり、昼間が最も短く夜が最も長い日となる。東京では昼間が9時間25分、夜が14時間35分ぐらいである。

 太陽が天の子午線の上にくることを「正中」(むかしは南中といったが、北の子午線上にくるときも南中というのは不都合なので、現在は正中と呼ぶ)といい、冬至の日に正中高度が最も低いということは、正午における太陽の位置が最も斜めになっているということである。そこで地面に棒を垂直に立てると、冬至の日の正中の太陽の位置が最も斜めになっているということである。そこで地面に棒を垂直に立てると、冬至の日の正中の太陽による棒の影の長さは最も長くなるわけである。

 

 中国ではこの原理を用いて冬至の日を測定した。観測に使う棒を周髀または表といい、周の時代(前1,050〜前256)には周髀の高さを八尺と定めた。


 中国の古い天文書に『周髀算経(しゅうひさんけい)』という書物がある。周公と宰相の商高との対話によって書かれ、次のように記されている。

 「周髀の長さ八尺、冬至のとき日影一丈三尺、夏至のとき日影一尺六寸、髀は股、正影(真昼の日影)は勾」  

          

 このことにより、冬至および夏至のときに影の長さを測ったことが知られる。さらに

 「髀より日の下に至る六万里、而して髀の影なし。此れより以上日に至れば則ち八万里、髀より日に至る一○万里」 

 「矩(定木)を折り、以って勾の広(ながさ)三、股の修(たかさ)四、径(弦)の五を為(つく)る」とある。


 これは、直角三角形の直角をはさむ短い横の辺を「勾(こう)」、長い縦の辺を「股(こ)」斜辺を「弦(げん)」といい、三辺が3、4、5 となる直角三角形の直角の事を述べたものである。その相似形として、6万里、8万里、10万里の距離を知ったのであろう。


 数学で有名なピタゴラスの定理は「勾股弦(こうこげん)の法」と言われるもので「勾・股をそれぞれ二乗したものの和と、弦を二乗したものとは等しい」というものである。

 日本で最初にピタゴラスの定理を述べたのは、吉田光吉の『塵劫記』(1,627年)であるが、証明を記したのは沢口一之の『古今三方法(ここんさんぽうほう)』(1,670年)である。


長さの「尺」度


 さて、周髀の長さ八尺とあるが、「尺」は曲尺(かねじゃく)の30.3cmではない。

「尺」という字は手を広げてものを測る形の象徴文字であり、手を広げた親指の先から中指の先までの長さをいう。それはちょうど、指十本の幅と同じになる。

 現在「尺」といえば曲尺で、30.3cmをいうが、周の時代には小尺と大尺があり、小尺は婦人の指十本の幅を単位として「咫(し)」といい、大尺は男子の指十本の幅を単位として「尺」といった。咫は現在の18㎝、尺は22.5㎝ほどにあたる、すると八尺は小尺ならば1m44cm、大尺ならば1m80cm、だいたい人の背丈ほどである。


冬至と立春正月


 八尺の周髀の影が最も長くなる日=冬至の日の測定は非常に難しい。冬至の頃の日々の影の長さの変化が小さいからである。したがって古代では冬至が一日か二日誤って決められることもしばしばあったことと思われる。

 冬至の日は太陽が最も斜めに照らす日であり、昼間が最も短いために最も弱い太陽となるわけである。陰極まれば陽萌す原理で冬至のとき最も弱い太陽は、冬至から後は次第に昼間が多くなって光と熱を増してくる。そこで、冬至は陽が兆す一陽来復の日として、未来への

希望をつなぐ陽とされたのである。

  

 冬至が太陽の復活を意味し、そこから次第に日照時間が多くなっていくことは確かであるが、しかし「冬至冬中冬初め」といわれているように、気候の点からいって、暖かさは冬至から復活してくるわけではない。気候からいえば、暖かさの復活点は立春である。

 地球が太陽の熱を受けて吸収し、そのため、あたたまるのに四五日ぐらいかかり、冬至のとき最も少なく受けた熱の効果は立春の頃に現れるので、立春が最も寒いということになる。陰極まれば陽萌す原理で立春で寒さも峠を超え、これ以上は寒くもならず、暖かさが増してくる。立春はいわば暖かさの復活点といえる。そのため、漢の武帝のとき、年の始めを冬至から立春に改めるようになった。この立春正月の思想は日本にも受け入れられ、日本で用いられた太陰太陽暦は持統天皇六(692)年の元嘉暦から仁徳天皇の天保十四(1,843)年の天保暦に至るまで、すべて年始は立春となった。


しかし原理的にいえば、太陽の復活は冬至であるために、暦を作る上で冬至を基点とすることが必要であり、中国では天子は観象授時といって暦を作って人民に授けることが重要な任務だったので、冬至の日に天を祭る厳守な儀式を行ったのである。

 冬至は陰陽が交差する分岐点なので、陰陽の定まるまで静かに待ち、人々は一切の仕事をやめて休憩し、旧年の邪気を払って太陽の復活とともに新しい生活の門出とした。 


冬至の太陽の動きを見る


冬至は夜が最も長く、昼が最も短い日であると述べた。それでは、冬至は日の出が最も遅く、日の入りが最も早い日なのだろうか。

答えは否である。その理由を調べてみたい。

 現在、私たちが一日といっているのは、地球が太陽に対して一回転する時間で、それが24時間であるということを知っている。しかし真の一日は24時間ではなく、それより短いことも長いこともある。最も短いのは9月17日ごろで23時間59分39秒、最も長いのは12月22日ごろで24時間30秒である。 一日がこのように一定していないのは不便なので、一年間の平均をとった一日を平均太陽日といい、それが私たちの日常用いている「一日=24時間」である。


 それでは、なぜ真の一日が一定していないのだろう。

 太陽の通る道=黄道が赤道に対して23・4度傾いているために、太陽の速度が一定であっても、黄道上の太陽が赤道に近い春分や秋分の頃には、真の一日が平均より長くなる。

 次に、地球が太陽を焦点とする楕円軌道を公転しているために、ケプラーの定理(面積速度一定)より明らかなように、地球の公転速度は地球が太陽に近い一月ごろが最も大きく、太陽から遠い七月ごろ最も小さくなる。したがって黄道上の太陽の速度は相対的に一月ご

ろが最大、七月ごろが最小となる。以上の原因を合わせて、真の一日の最も短いのが12月22日ごろとなるのである。

                  

 こうして真の一日と平均太陽日との差が積もり積もって、日の出、日の入り二時間差がで

きる。この真の一日と平均太陽日との日ごとの差を合計したものを「時間差」という。

 さて、冬至は真の一日の日の出は最も遅く、日の入りは最も早いのだが、均時差があるために平均太陽日では冬至の日に日の出が最も遅く、日の入りが最も早くならない。均時差のために日の出が最も遅くなるのは1月6日、日の入りが最も早くなるのは12月6日ごろである。

 同様に、日の出が最も早く、日の入りが最も遅くなるのは夏至の日ではなく、日の出の最も早いのは6月12日、日の入りの最も遅くなるのはと6月30日ごろである。しかし、昼が最も長く、夜が最も短いのが夏至の日であることは正しい。

 要するに、冬至は昼が最も短く、夜が最も長い日であるが、日の出が最も遅く日の入りが最も早い日ではない。

 「冬至から畳の目ほど日が延びる」とは、冬至をすぎると少しずつ日あしが伸びて日の長くなることをいい、「冬至十日は日の座(すわ)り」とは、冬至後の10日間は太陽が座り込んでしまったように日が短く感じられるということである。立春の頃には冬至より47分、日照時間が長くなる。

 また、「冬至10日たてば阿呆でも知る」というのは、冬至から10日も経つと、めっきり日の長くなることがわかるという意味であるが、もう少し深く考えてみると、日の入りの時刻に関係のあることがわかる。


 冬至が日の入りの最も早い日であったとしたら、10日たっても日の入りは1分ぐらいしか遅れないので、前日に比べて日が長くなったことはほとんど感じない程度なのだが、日の入りの最も早いのは12月6日ごろであるから、冬至後10日もすれば日の入りは10分以上遅れてくるので、誰でも日が長くなったことに気がつくという意味である。


【冬至】……11月度の感想

 冬至の日、太陽は日の出、日の入りの頃、最も南に位置し、北半球では一日の長さは最短になるとのこと。ただ視点を変えると、冬至を起点に、昼の長さは復活するかごとく長くなり、再びはじまりを迎える時でもあります。                            

 日本だけでなく世界中では、冬至を復活の日、再生の日、太陽の復活、あるいは誕生の日として、多くの行事、祝う習慣があるとのこと。 

 ものごとは、行く着くところまで行くと一転し、再び始まる、再生するという理を学ぶ機会でもあると思わせられます。             今月も誠に有り難うございました。







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