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  • 2023年6月7日
  • 読了時間: 5分



聖数「七」と星のめぐり逢い     〜 七夕 〜  


                                今江 美和⼦                              

七月七日は七夕です。七夕を「たなばた」と読むのはなぜでしょう。「たな」は棚、「はた」は機です。七月七日の夜、遠来のまれびと・神を迎えるために水上に棚作りして、聖なる乙女が機を織る行事があり、その乙女を棚機女または乙棚機と言いました。七月七日であったために「七夕」の字を当てました。万葉集にはたなばたは織女とかかれていますが、新古今和歌集では七夕となっており、「七夕」の字は平安時代に当てられたものでありことがわかります。


七夕と言えば、天の川を隔てて会うことができなくなった織姫と彦星が、一年に一度だけ 会うことができるというロマンチックな星物語が有名な日です。


 そもそも七夕は盆行事の一環として、先祖の霊を祭る禊の行事でありました。人里離れた水辺の機屋に神の嫁となるべき処女が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして汚れを神に託して持ち去ってもらう祓えの行事でありました。盆に先立つ、物忌みのための祓えでもありました。  

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そこで、七夕の室礼に、竹の葉、グラジオラス、富貴、那花で花束を作りました。 

そして、それぞれの花について調べてみました。


●笹の葉《笹》

竹についている葉。笹(ささ)の葉。竹葉。 《「竹葉(ちくよう)」を訓読みにした語》

酒のこと。


●グラジオラス

アヤメ科グラジオラス属の植物の総称。日本には自生種はなく、園芸植物として植えられている。別名、トウショウブ、オランダショウブ。 名前は古代ローマの剣であるグラディウスに由来し、葉が剣に類似していることが根拠といわれる。日本では明治時代に輸入され、栽培が開始された。根は湿布薬の材料に使われる。


●富貴花

【牡丹】遅咲品種に金帝(きんてい)(レエスペランスともいう,黄一重),金晃(きんこう)(アリス・ハーディングともいう,黄万重)などがある。

中国では、牡丹は,中国を代表する花として,花王,花神,富貴花など多くの別称をもつ。宋代の洛陽では花といえば牡丹をさした。

また、牡丹百花のうちで第一なので、これを花王と唱えた。さらに富貴花、

天香国色、花神などの名が呼ばれている。宋の欧陽修の『洛陽牡丹の記』は有名。


●那花《アザミの花》

人類が初めて出会った雑草(キク科)。 「アザミは嫌われ者」であるとか…。









神の教えに背いて、禁断の果実を食べたアダムとイブは、エデンの園を追い出され、イバラやアザミの生えた中から、果実を見分けて食べなければならなくなったという。 アザミは私たち人類にとって、初めて出会った雑草でもあると言います。


日本語の「アザミ」の名は、「あざむ」に由来するといわれています。あざむには「興ざめする」という意味があり、美しい花だと思って触れると、トゲがあって驚かされる。つまりは、「あざむかれた」ということなのだ。アザミは漢字で「薊」と書くが、草冠に魚(骨)と刀を書き記した字も、アザミのトゲをよく表しています。


ヨーロッパでは牧草地などによく生えるが、トゲがあるので、牛や馬もアザミを食べることはない。そのため、アザミだけが食い残されて、雑草として広がっていく。 何ともやっかいな雑草です。

ところが不思議なことに、スコットランドでは、アザミは国花として愛されており、昔、スコットランドがノルウェーの大軍に攻められたとき、夜襲を掛けようとしたノルウェー軍の兵隊がアザミを踏んで悲鳴を上げたため、奇襲に気がついたスコットランド軍は大勝を収めることができました。そして、それ以降、スコットランドの人々を悩ませていたノルウェー軍の侵攻はなくなったという。こうしてアザミは国を救った花とされ、スコットランドの国花や紋章となったのです。


今月の《盛り物》ですが、当初は、花束を逆さに下げたものをお作りしましたが、『目上の方に差し上げるものとしては、いかがなものか??』との山本先生のお言葉から、テーブルの上に置き直したものといたしました。そして、「傘の絵柄を添えては?」との山本先生のお言葉から『番傘』の絵を添えました。


晴れた夜空に見える七夕に傘…とは、意外でしたが、『番傘』には人生でも馴染みがなく、少し調べてみることにいたしました。


【 番傘 】

和傘発祥の地はタイ・ベトナムなどで、そこから中国を経て日本に伝わりました。中国の唐からの伝来なので、唐傘(からかさ)と呼ばれるようになりましたが、それまでの雨具はかぶり笠のみでした。昨今、和傘の製造は、その発祥の地に帰りつつあるそうです。


和傘は、まず第一に日本式の和傘であること。 唐傘(中国式傘)は親骨に小骨を差し込む「作り」であることに対して、和傘の「作り」は、親骨を小骨が挟みこむように作られております。親骨を差し込む「作り」の唐傘(中国式傘)は親骨を太く製作しないといけないため、傘を閉じたときに親骨の数が少ないにも関わらず、太くなります。


日本式傘(和傘)は親骨・小骨を細く製作できるため、傘を閉じたときに細く、軽くなります。しかしながら、親骨・小骨を細いため、唐傘(中国式傘)より強度が弱くなり、骨数を増やすことで強度を補っております。日本式(和傘)の「作り」は非常に繊細で、製作できる職人の数も非常に少ないのが現状だそうです。 ________________________________________               


日本の七夕の夜は、雨が降っていることも多いけれど、男女ともに仲良く、

夫婦は互いを高めあっていければ幸いである…と存じます。




  • 2023年6月7日
  • 読了時間: 4分


嘉祥菓子   和菓子の起源と楽しみ方


                                今江 美和⼦ 六⽉⼗六⽇は「和菓⼦の⽇」

かつて和菓⼦が主役をつとめていた⾏事が 6 ⽉ 16⽇にありました。

その名前を嘉祥 (かじょう) といい、起源は平安時代に遡 (さかのぼ) ると

もいわれますが、はっきりしておりません。

室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。

また武家の間では、この⽇に楊⼸ (ようきゅう) という短い⼸⽮で的を射て、

負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」 (かじょうつうほう) 16 枚で買った

⾷べ物を贈りました。銭の「嘉」と「通」の字を読んだ⾳が、勝に通じることから

武家に尊ばれました。このようなことから嘉祥は嘉定とも書きます。 慶⻑ 8 年 (1603) 、征夷⼤将軍となって江⼾幕府を開いた徳川家康は、戦国時代を

終わらせ、戦争のない平和で安定した社会の礎を築きました。

幕府を開く以前の元⻲ 3 年 (1572) 、家康に最⼤の危機が訪れます。


甲斐 (現在の⼭梨県) の武⽥信⽞が上洛の軍をおこしたのです。 家康は、三⽅ケ原 (浜松市の⻄⽅) において信⽞の軍勢を迎え撃ちました。

結果として⼤敗を喫したのですが、半分にも満たない軍勢で、同盟者織⽥信長の

ために戦いを挑んだ家康の律儀、勇敢さは賞賛されます。徳川家にとって三⽅ケ原の戦いは、記念すべき⼤敗した合戦でした。  「嘉定私記」によれば、三⽅ケ原の戦いの前、⽻⼊⼋幡にて戦勝を祈願した 家康は、

裏に「⼗六」と鋳付けられた嘉定通宝を拾って縁起をかつぎ、家⾂の⼤久保藤五郎

(おおくぼとうごろう) は⼿製の菓⼦を献上したといいます。

この故事にちなんで嘉祥は、江⼾幕府でも盛⼤に⾏われました。

江⼾城⼤広間 500畳に 2 万個をこえる⽺羹や饅頭などの菓⼦が並べられ、

将軍から⼤名・旗本へ与えられます。もっとも将軍が⼿ずから菓⼦を与えるのは

最初だけで、以後は途中で奥へ退出してしまい、⼤名・旗本は⾃ら菓⼦を取りました。

 ⼆代将軍 秀忠 (ひでただ) までは、将軍 ⾃ら菓⼦を与えたので数⽇、肩が痛かったとのことです。ちなみに家康に菓⼦を献上した⼤久保藤五郎は、後に主⽔(もんと)を名乗り、

幕府の御⽤菓⼦屋となり嘉祥に深く関わっています。 


 明治以後、嘉祥の儀式は廃 (すた) れてしまいました。

 昭和 54 年 (1979) 、全国和菓⼦協会では嘉祥の⾏われた 6⽉ 16⽇を和菓の⽇と定め、

さまざまな⾏事を⾏っています。  また、⻁屋では幕末頃に御所へお納めした七種類の嘉祥菓⼦をはじめ、

嘉祥饅頭や嘉祥蒸⽺羹を販売しています。  これは、江⼾時代に盛んになった⾏事「嘉祥(かじょう、嘉定とも)」にちなんだもの。その⽇は和菓⼦を⾷べて厄除け招福を願うとか。 「和菓⼦で厄除け」と聞くと以外に思えますが、実は元々、ひな祭りや端午の節句と同じ用に親しまれてきたものとか。  毎年、この⽇には、東京・⾚坂にある⽇枝神社で「⼭王嘉祥祭」が⾏われ、東京和菓⼦商⼯業共同組合の技術者が「菓⼦司」として神前にて和菓⼦(煉切)を作り、奉納。 全国各地の和菓⼦屋さんで嘉祥にちなんだお菓⼦を販売しています。 ⼀体、「嘉祥」とは? そしてこの⽇のための和菓⼦にはどんなものがあるのでしょう。

⾷べ物を贈り合う⾵習

 「⻁屋⽂庫」は 1973 年(昭和 48 年)に創設された、⻁屋にあるお菓⼦の資料室です。古くから宮中の御⽤を務めてきた⻁屋に伝わる、歴代の古⽂書や古器物なども収蔵。

⼀般公開はされていませんが、和菓⼦についての様々な疑問にもお答えいただけます。


まずは「和菓⼦の⽇」の由来となった⾏事「嘉祥」について、⽼舗和菓⼦屋の

⻁屋さんに関する資料収集、調査研究を⾏っている、「⻁屋⽂庫」でのお話によると…

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⻁屋⽂庫: 「嘉祥」の起源は諸説あり、はっきりしたことはよくわかっていないのです。

     「嘉祥」とは「めでたいしるし」という意味。

 

     江⼾時代の百科事典「和漢三才図会」によると、「847年(承和 14 年)、

    朝廷に⽩⻲が献上されたことを吉兆とし、仁明天皇が 6 ⽉ 16 ⽇に「嘉祥」と

    改元、「群⾂に⾷物などを贈った」とあります。


    「室町時代、公家では嘉祥の⽇に⾷べ物を贈り合い、武家では楊⼸(ようきゅう)               

    の勝負をし、敗者が勝者に嘉定通宝 16 ⽂で⾷べ物を買ってもてなすという⾵習が

    ありました」


     嘉定通宝とは中国のお⾦で、当時、⽇本でも流通していたもの。

    「嘉(か)」「通(つう)」が勝つに通じることから、公家の間で縁起が良いもの

    として尊ばれていたのだそう。


   「嘉祥」と「嘉定」をかけて、招福を願っていたのかもしれません。


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⼤広間に並ぶ 2 万個のお菓⼦


「嘉祥」の⾵習が盛んになったのは江⼾時代のこと。

宮中では天皇が公家などにお⽶を与え、公家たちはこのお⽶をお菓⼦に替えて

献上していました。


 また、幕府でも盛⼤に⾏われ、多い時には江⼾城の⼤広間に 2万個を超えるお菓⼦が並べられ、将軍から⼤名や旗本に配られていたそうです。




《 感 想 》

 甘い物は今も昔もかわりなく、⼈々を魅了してきたものと思います。

  

 私がひとつ、⽢い物を献上するとしたら、間違いなく『カステラ』を選びます。

私が⽣まれ育った⻑崎では、いつの頃も⾝近にありました。


『カステラは、和菓⼦か洋菓⼦か』と問われれば、和菓⼦にあたるそうですので、⾃信を持って嘉祥菓⼦にお勧めしたいものです。


 どちらのお店のカステラがお勧めか?と問われれば、『福砂屋』とお答えしたいです。⼈の好みは様々ですが、と卵と砂糖の⾵味と薄い紙を剥がす時の⼼地良さはたまらないです。


今⽉も誠にありがとうございました。







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