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  • 2023年3月17日
  • 読了時間: 4分




『花まつり 〈灌仏会、仏生会、降誕会〉』                            


                            今江 美和子



「花まつり・灌仏会」とは、何をするのか?


 花まつりはもともと灌仏会(かんぶつえ。仏生会、降誕祭などとも)と呼ばれ、

仏教の創始者であるお釈迦様の生誕をお祝いする仏教行事です。「花まつり」とも称されるようになったのは明治時代以降のことです。キリスト教でイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマスであるのと同じで、仏教ではお釈迦さまの誕生を祝うのが「花まつり」、ということになります。


 日本のように、中国を経由して伝わった(北伝仏教)国々では、お釈迦さまは旧暦4月8日、インドのルンビニ(現在はネパール連邦共和国)で生まれたとされていますが、その典拠は不明です。日本ではそれにちなんで新暦の4月8日または5月8日に「花まつり」(灌仏会、仏生会、降誕祭)が催されます。


「花まつり」として知られるお祭りの正式名称は「灌仏会(かんぶつえ)」。


 “仏に濯(そそ)ぐ”ことから「灌仏会」と名付けられ、「降誕祭」(こうたんえ)、「仏生会」(ぶっしょうえ)、「浴仏衣」(よくぶつえ)、「竜華会」(りゅうげえ)、「花会式」(はなえしき)ともいわれます。

 「承和七(840)年四月八日に、清涼殿にしてはじめて御灌仏の事は行はしめ給ふ」との記録が残っており、その起源は平安時代までさかのぼるといわれています。また、「花まつり」の名称は明治時代に浄土宗が採用したものとされています。



「花まつり・灌仏会はいつ?」

 

 お釈迦様の生誕が4月8日とされているため、「花まつり」・「灌仏会」はこの日に開催されるのが一般的です。


 ただし、旧暦の4月8日や月遅れの5月8日に開催するお寺もあり、地域によって異なります。主に関東地方では4月8日、関西地方では5月8日に開催されることが多いそうです。



「花まつり」・「灌仏会」では、お寺でどんなことをするのか?


 お寺で開催される花まつり・灌仏会では、さまざまな伝統的行事が行われます。


 お釈迦さまのお生まれになった4月8日に、その誕生を祝う行事です。

花々に彩られた花御堂(はなみどう)の中にいらっしゃる小さなお釈迦さまのお像に甘茶(あまちゃ)を掛けた、という記憶があるかもしれません。これは、お釈迦さまが誕生された際、天から神々が降りてきて祝福のために甘露の水を注いだという経典の説示に由来します。一般的には「花まつり」の呼び名で親しまれています。ご命日に勤める涅槃会(ねはんえ=2月15日)や、悟りを開かれたことを祈念して行う成道会(じょうどうえ=12月8日)と並んで、釈尊三大法要の一つに数えられます。



「花御堂(はなみどう)」に誕生物を安置する。


 この日のために作られた小さな御堂(※仏像を安置した堂のこと)である花御堂に、

右手で天を指した誕生時のお釈迦様をかたどった銅像・誕生仏(たんじょうぶつ)を安置します。


 これは華やかな色や香りを持つ花によって仏を供養するという意味があり、

花御堂は色とりどり華やかに飾られます。

仏が歩く道にまく散華(さんげ)と呼ばれる行いになぞらえたものです。



参拝者が誕生仏に「甘茶(あまちゃ)」をかける。


 花御堂に安置された誕生仏に、参拝者が甘茶をかけます。

こうすることで、体を洗い清め、子どもの身体健全や諸願の成就を願います。

甘茶をかけることで虫よけやまじないにも使われたそう。


 花まつり中、お寺によっては甘茶を振る舞ってくれることもありますが、そもそも甘茶って何?と思われる方も多いでしょう。甘茶とはアマチャの木から作られた、独特な甘さのあるお茶のこと。

ストレートな紅茶に砂糖を加えたような上品な味わいと表現する人もいるとか。



「稚児行列(ちごぎょうれつ)」を行うお寺も。


 稚児行列とは、平安装束モチーフの衣装を着た子供達が行列を作り、街を練り歩く行事のこと。お寺によっては、花まつりに稚児行列が開催されることもあります。             

 生きとし生けるものである衆生(しゅじょう)に教えを授けて下さったお釈迦様の生誕に対する感謝や、そのご利益をいただくことで、子供達の発育の祈願をします。



行列などで見られる「白い象」の意味は?

 

 お寺によって、白い象の置物が登場することがあります。大きさはさまざまで、大きな像の背中の上に花御堂をのせていることも。


「白い象」が神聖な動物として扱われている理由は、お釈迦様の母である摩耶夫人が

“夢の中で六本の牙を持つ白い象を見た”ことでお釈迦様を懐妊したといわれていることから。白い象がお釈迦様を運んできた、と信じられていることに由来しています。


 また、白い象は雨を表し、五穀豊穣を意味するともいわれています。



〈 感 想 〉                                 


お釈迦さまの誕生日は、仏教系の幼稚園に通園していた、

幼かった私の記憶にもしっかり残っています。

子ども心に、色とりどりの花でお釈迦さまを飾り立てたのを覚えています。

 

仏教徒の私は、自宅の仏壇にお参りをする際には、

ご先祖様にばかり気持ちがいってしまい、

お釈迦さまのことまでなかなか意識に登らないのですが、

これからはその大本であるお釈迦さまのことを思いながら、

感謝のお参りしたいと思います。


今月も誠にありがとうございました。

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  • 2023年3月6日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年4月11日





『幸を祈る春の祭典 ・・・ 上巳の節句』                           


                            今江 美和子


                                    

 

 

 三月三日は、華やかに雛人形を飾って女の子の健やかな成長と幸せを祈る行事を行う日で、上巳の節句、桃の節句などという。

 上巳とは、はじめの巳の日という意味で、三月は辰月であるから辰に縁の深い巳の日を忌日として、災厄からまぬがれ、また不浄を除くための祓えを行った。中国では踏青といって古くから除災の風習があり、川辺に出て青い草を踏み、川の流れで禊を行い、酒をくみ交わして穢を祓ったのである。秦の昭王が踏青の折、酒杯を川に流したとき金人が秦の前途を祝したという故事にならって、踏青は曲水の宴へと発展した。


 上巳の節句が三月三日になったのは、重日思想によるもので、辰の月春三月が固定されて、数字を重ねることによって、より強力な神の力が得られるとしたものである。

                  

右と左ではどちらが上か。

 現在、男雛は右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に飾ってあるが、関西の京風で は古式にならって男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)、と逆になっている。

 左か右か。

左上位か右上位かを考えると、中国では戦国時代に兵事及び車上のみは例外として左を優先していたが、他の全ては右優先の風習であった。漢の時代になって統一されて右上位となり、漢語に表れる意味はすべて右上位である。


 「右」には「貴い」「大切な」などの意味があり、右(大切で便利なもの)、

右姓(貴い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(最も信頼している部下)、右に出る(他よりすぐれている)などの語がある。

 一方「左」は「いやしい」「低い」などを意味し、左遷(官位を下げること)左(いやしいこと)、左傾(心安らかでないことから急進的な思想)、左前(物事が順調に行かなくなること)などがある。

 例外として左を虚しくす(車上では左を貴ぶので左の席を空けること)があるが、これは賢者を尊ぶ札である。また、左言(道理に反した言葉)、左道(邪道)などの「左」は「そむく」「たがえる」の内容を持っている。

 その後、六朝の混乱期を経て唐の時代になって上下が逆転し、左上位となった。日本の文化は唐の文化に影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となった。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。

 文化面でも、上手は左(客席から舞台に向かって右)、下手は右(向かって左)となっている。


 内裏雛の話に戻すと、東福門院が娘 興子の幸せを祈ってつくった座り雛は、男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に描かれてある。興子内親王は天皇になられたので、女帝は上位であるために、女雛が左(向かって右)に座っている。これは唐制になった左上位思想の表れである。この左上位の風習はそのまま現代に引き継がれて、男性優位のため、関西では京風の内裏雛は、向かって右に男雛、向かって左に女雛が並んでいる。


 ところが関東式の内裏雛は、向かって左が男雛、むかって右が女雛である。

現代の結婚式の披露宴をみても、高砂の席に新郎は向かって左、新婦は向かって右に座っている。日本の結婚は古来より男子主体の家督相続的なものであるため、男子優先で行われてきた。結婚式に新郎が向かって左に立つということは、実は右に位置することであり、男子優先とすれば右上位ということになる。それでは関東式の内裏雛や現代の結婚式などは、右上位ということなのだろうか。


 昭和三年十一月十日、昭和天皇が京都御所で即位の御大礼をあげられた際の写真が新聞に掲載されたが、そのときは天皇が右(向かって左)、皇后が左(向かって右)に立たれていた。

事情のあることだったのだろうが、古式はここに終わりをつげることになった。天皇神聖の時代を背景として、それ以来男子が右(向かって左)、女子が左(向かって右)という形が                          成立したのである。もっとも明治七年、新年の儀式が宮中で行われた際の写真が発刊されたばかりの新聞に載ったが、明治天皇は西洋式を採用され、向かって左に座っておられる。西洋式は右優先だからである。

 

 また、明治二十三年二月十一日(紀元節)に小学校に御真影が下賜されたが、明治天皇は向かって左に、皇后は向かって右になるように写真が置かれている。大正天皇、昭和天皇・皇后の御真影もこれにならっている。文明開化という時代の流れとともに、皇室中心主義の政策から生まれたものといえよう。

 しかし、現在のような関東式の内裏雛の位置=男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に定着したのは、昭和になってからのことである。

 おもしろいことに、昭和二十年、第二次世界大戦直後、連合軍司令部のマッカーサーによって、男雛は向かって右、女雛は向かって左に、つまり西洋式にするよう指令をうけたという。女性優先の考え方に従って女性を大切にせよという意味からだといわれている。

 結論として、唐制にならった左上位の古いしきたりはそのまま京風として温存され、昭和御大典以来それに則ったというのが関東風ということができよう。


「桃」の字の不思議な聖性      

上巳の節句は桃の節句といわれる。桃がちょうど盛りの頃で桃色の美しさを愛でる意味もあろうが、「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔除けの信仰があった。

「桃」は兆に木偏がついた会意文字であり、兆と同じ音を持つ形声文字でもある。

中国で昔、狩猟民族が天意を占うときに、亀の甲や獣骨に占い字(卜辞)を刻んでそれを火にあぶると、甲羅や骨にひび割れができる。そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などの言葉からもわかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。


「桃」は兆しを持つ木とされて、兆しを持つ木は未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でも梨太郎でもなく、桃太郎でなければならないのである。なお、桃太郎が二つに割れた桃の中から生まれてくるのも「兆」の字が「割れ目」を意味するからである。


また、桃は春早くから花を開き多くの実を結ぶ、多産な木である。二つに割った桃の実は女陰に似て、聖なる呪い要素を持っている。聖なる多産な桃が凶を払い魔を防ぐことによって、女の子の末永い幸を祈る行事が桃の節句だといえよう。

                   


【 感 想 】

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 子どもの頃から親しんできたお雛様に神聖な願いが込められていることを知り、

眺める時の思いも変わる気がしてまいります。


 菜の花は、二年前に亡くなった義妹のために供えました。

義妹も共に祝いたかった雛祭り。

三月三日にしまう時まで、充分に眺め、楽しませていただきたいと思います。


今月も誠に有難うございました。

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  • 2023年2月3日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年2月4日





『春立つ光は年のはじめ ・・・ 節分』                           


                            今江 美和子


                                    

 一年を二四等分する

 

 節分とは季節の分かれ目のことである。季節には春夏秋冬の四季があり、それぞれの季節の分かれ目、すなわち立春、立夏、立秋、立冬の前日を節分という。それが立春正月の思想によって一年の始めを立春とするため、いつの頃からか立春の前日の節分だけが強調されるようになり、その日が一年の境目と考えられるようになった。

 

 そもそも正しい季節を示すために暦に作られた目印を二十四節気といった。

 太陰太陽暦では暦の上の月日と季節が食い違いをおこすので、暦の月日とは別に、農事に必要な季節の標準を示す必要があったからである。

 一太陽年を二四等分して、太陽が最も低く昼間の最も短い冬至から始めて、一年を二四分割した分点を二十四節気とした。

一年は365.3422日であるから、冬至から始めて15.2184日ごとに時点を設け、その時点を含む日を二十四節気とした。


 一つおきに「節」と「中」を設け、四季を春夏秋冬と定めてそれぞれ立春、立夏、立秋、立冬よりその季節が始まるとしたのである。

 節から次の節の前日までを節月といい、節月は次の通りとなる。


   正月 立春から啓蟄の前日まで    七月 立秋から白露の前日まで

   二月 啓蟄から清明の前日まで    八月 白露から寒露の前日まで

   三月 清明から立夏の前日まで    九月 寒露から立冬の前日まで

   四月 立夏から芒種の前日まで    十月 立冬から大雪の前日まで

   五月 芒種から小暑の前日まで    十一月 大雪から小寒の前日まで

   六月 小暑から立秋の前日まで    十二月 小寒から立春の前日まで


「節」はこうして季節の標準となり、節月を設ける役割を担っている。現在の気候から見るとおよそ岩手県の気候と合致するような感覚であるが、中国において周王朝によって華北の気候状況にあわせてつくられた美しい言葉が、2,000年以上も長く現在までも生きているのは素晴らしいことである。

                   



 朔を一日とすることを中国で履端於始といい、正しい季節を中気にあわせて中気で月名をきめることを挙正於中といった、そして余分の日数をまとめて閏月とすることを拳正於

中といった。紀元前六二六年のことである。

 こうして、正月とは「中」雨水を含む月であり、「節」立春から正月が始まるという立春正月思想が生まれたのである。

 以上述べた二十四節気の定め方を平気法(または常気法、恒気法)といい、紀元前七世紀頃、中国で開発されて、中国で最初の暦といわれる漢の太初暦(紀元前一〇四年)から清の時憲暦(一六四五年)まで二千数百年にわたって使われてきた。日本では持統天皇の時代の元嘉暦(六九二年)から江戸末期の天保暦(一八四三年)まで用いられてきたのである。

 長い歴史によってふみかためられた立春正月思想は、次のような季節感として受け入れられてきた。

   春 立春から三月晦まで 

   夏 立夏から六月晦まで

   秋 立秋から九月晦まで

   冬  立冬から十二月晦まで

 季節はそれぞれの「節」に始まり、暦の上のそれぞれの晦日で終わり告げるように感じとられていたのである。


立春」の基準


 季節を知るための指標は二十四節気である。そして、生きとし生けるものが生まれ出てくるのは春であるという思想、それは冬眠からさめる動物、新しく芽を吹き出す植物、そして人が寒い冬から開放されて暖かい明るい春になって活動を始めるという実生活と結びついている。

「春立つ」というのは一年の始めになるということで、正月を意味する。「春」のフランス語Printemps、スペイン語のPrimaveraというのは、最初の時という意味である。また英語のSpringやオランダ語のSprongには、跳ねると言う意味もある。

 立春思想はそのまま受け継がれながら、二十四節気の定め方は、現在では平気法によらず、定気法によっている。

 平気法から定気法へ二十四節気の制定法が変わっても立春思想に影響はなく、季節感にも変化はおこらない。


なぜ節分に豆をまくか


 立春思想によって、冬から春の折り目として、立春の前日を節分として一年のしめくくりをする行事が行われている。


 節分の夜、豆撒きをする。                         

 豆まきの風習は、日本では室町時代に始まったもので、中国から伝わった追儺の儀式に由来すると思われる。追儺は「鬼やらい」ともいい、疫病や災害を追い払う行事で、中国では紀元前三世紀の秦の時代にすでに行われていた。疫病や陰気、災害は鬼にたとえられ、鬼を桃の弓や葦の矢、また戈(ほこ)と盾とで追い出すことであった。


 遣唐使に依ってもたらされた追儺の風習は、文武天皇の慶雲三(七○六)年に疫病が流行して百姓が多数死んだので、鬼やらいを行ったことが知られている、その後民間でも次第に行われるようになって、文徳天皇(八五○年代)の頃より行事化したという。


鬼のルーツを陰陽五行に探る


 節分には欠かせない“憎まれ役”として登場する「鬼」とは何かを考えてみる。

節分の夜、新しい春を迎えるために、家のすみずみから鬼を追い出すが、鬼とはもともと不自由の寒気であり、疫病であった。すなわち「人に災いをもたらす、目に見えない隠れたもの」が鬼であり「隠(おに)」と呼ばれていたのである。

陰陽説とは、天地万物すべて陰と陽とから成り立っているという二元論である。世の中の事象はそれだけが独立した形で世界ができており、陰陽が交互に消長を繰り返しながら新たな発展を生んでゆくという考え方である。


 五行説というのは、木・火・土・金・水という五つの気があり、万物はそれぞれ気の性質を持ち、それが互いに結合し、循環することによって新しい現象を生みだすという考え方である。


 五行説によると、火木金土水がこの順に並んでいる関係、つまり「木火」「火土」「土金」「金水」「水木」の関係はそれぞれ相生といって互いに助け合う良い関係、木火土金水が一つおきに(木土水火金)並んでいる関係、つまり「木土」「土水」「水火」「火金」「金木」の関係は相剋といって互いに殺し合う悪い関係とされている。また、同じ五行は比和関係といい、善悪なしという。


十二支  子  丑寅  卯  辰巳  午  未申  酉  戌亥(子)

方位   北  東北  東  東南  南  西南  西  西北(北)

五行   水  土  木  木 火  土  金  金 (水) 

関係   相剋 相剋 比和 相生 相生 相生 比和 相生


 また、東北方面だけが両隣の方位に対して相剋になっていることがわかる。このため東北方向を、人が嫌う恐ろしい鬼の来るところとみなし「鬼門」と呼ぶようになったのである。

こうした発想も『山海経(さんがいきょう)』という中国の書物に、人を悩ます鬼が東北の度朔山という山に住んでいるという話が書かれていることに由来するようだが、この逸話を生んだ背景にあるのも五行思想なのである。こうして五行相剋を一手に引き受けて想像の世界で生みだされたのが「鬼」である。


 恐ろしい鬼は、東北の方角にいる。東北は十二支の丑寅の方角に当たるので、鬼は牛と虎の特徴を背負わされた。つまり、牛のような角、虎の大きな牙、そして虎の皮のふんどしである。

 五行説によって生まれた鬼のイメージを最初に描いたのは当時代の呉道子で、以来われわれもおなじみの、あの独特な鬼のスタイルが定着したといわれる。

 「鬼」とは最初は隠れて目に見えない陰性のものであったが、五行説によって具象化され、目に見えるもの、恐ろしい怪物のイメージが定着した。日本では古くから死者を穢れと恐れの両面から見る発想があり、それがいつの間にか恐れだけが優先して目に見える怪物の像を作り上げたが、「陰」とは寒さであり、病気であり、貧しさであり、平和を乱す一切のものであって、そのシンボルが鬼だということができよう。


 鬼門を忌み嫌う風潮は、現在でも家相などといって、家を建てる時などにみられるが、歴史的に有名な鬼門除けがある。

 平安時代に京都に都を移した折、京都御所の東北にあたる比叡山に延暦寺を建てて、京の都の平穏を祈った。また江戸時代に江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てて、

江戸の安泰を願った。


 ちなみに「鬼」は英語でdemon, devil, fiend, goblin, ogre, gnome などいろいろあるが、具体的なイメージは、はっきりしないようである。

【感想】      

 『鬼』といって思い浮かぶのは、TBSのアニメ番組の『日本むかし話』で見た様々な鬼たちである。本当の鬼を目撃することがあれば、慌てふためいて、そう落ち着いてはいられないであろうと思う。

今年初めての授業に、初めてのレポートと気が引き締まりました。


山本先生のお話と皆様とのやりとりを楽しみに、一年、励んで参りたいと思います。

今年一年もご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

                  


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