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  • 2023年4月13日
  • 読了時間: 5分




五月の風物詩 ………【端午の節句】  


                            今江 美和子



五月五日は母の日?

五月五日は子どもの日である。昭和二十三(1948)年七月二十日発布の法律第一七八号、

国民の祝日に関する法律(祝日法)によって「こどもの人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに、母に感謝する日でもある。」と定められている。


 子どもの幸福については当然のこととして、現在、私たちは「法律的には母に感謝する日でもある」ことを忘れてはいないだろうか。母に感謝する日は母の日であるなどといっても、母の日は法律的に定められたものではない。法律的といえば、母の日はむしろ法令にあるように、五月五日だといえよう。そこでまず、母の日はどんな日であるかという話から始めたい。

 

 五月の第二日曜日が母の日である。母を亡くした者は白、母が健在の者は赤のカーネーションを胸に飾り、母に花束を贈って常日頃の苦労を慰め、母の愛を讃えて感謝する日である。日本ではキリスト教会の働きかけ等によって次第に広まっていったが、昭和二十四(1949)年ごろより母の日として定着するようになった。


 カーネーション carnation は学名をディアントス・カリオフィルス Dianthus caryophyllus といい、「丁字」clove のことである。良い香りを持つので命名されたのであろう。英語のカーネーションは、花冠が王冠(コロナ) corona に似ているので「王冠の形をした花」という意味である。むかし、カーネーション花でつくった花の冠をコロナといい、花をコロネーション coronation(戴冠式)と呼んでいたという。コロネーションが訛ってカーネーションになったわけである。

 カーネーションは、十字架にかかったキリストを見送った聖母マリアが落とした涙のあとに生じた可憐な花ともいわれて、母性愛の象徴となった。そしてそれはキリストの復活につながり、復活したキリストとともに生まれた花として、愛と喜びのシンボルともなった。

白いカーネーションは復活したキリストである。

カーネーションの花言葉は「母の愛情」である。



「悪月の極日」のケガレを祓う

 五月五日はこどもの日、端午の節句である。「端」ははじめの意、端午とは月のはじめの午の日ということである。夏正(正月を寅月とし、十二支の順に月名をつける仕方)によると、五月は午月であるから、午日を厄日として、災厄から逃れ、また不浄を除くための祓えを行った。五月は悪月であったからである。  

 中国では、古代より端午の日に野に出て薬草を摘み、草を武器として遊びをし、舟競渡を行った。また蓬で人形や虎をつくって門にかけ、菖蒲をひたした酒を飲み、蘭を入れた湯にひたるなど、すべて穢をはらい災厄を祓うための行事が行われた。


 端午の日が五月五日になったのは漢代以降、重日思想の影響で「午(ご)」は五に通じるため数字を重ねて祓えの意義を強調し、天意に添うようにしたのである。

 五月は悪月、それは五月の異名ともなったが、陰陽道でいう凶の月で、忌みつつしむ月であった。特に五月五日は悪月の頂点として、その月に生まれた子は父母を殺すとして捨てるならわしがあった。

 戦国末期の斉の君子で、鶏鳴狗盗で有名な、孟嘗君(もうしょうくん)、前漢の平帝を殺し、王莽を推して「新」という国を建設させた王鳳(おうほう)、北宋の文化人・道君皇帝徽宗、北宋の残忍極まりない高綽(こうしゃく)などが五月五日生まれであるが、どうも極めて秀でた人物か極悪人かに分かれるようである。ともかく悪月の極日として五月五日は祓えの日であった。



菖蒲は尚武の精神

 端午の節句は菖蒲の節句といわれる。

菖蒲は香り高いので、邪気を払い疫病を除くといわれている。菖蒲葺として軒にあげ、菖蒲髪として髪にさし、菖蒲枕として枕の下にいれ、菖蒲湯として風呂の中に入れるならわしがある。また葉の形が刀に似ていることから子供が武士をまねて菖蒲刀にし、地面を打ち合って菖蒲打ちを行った。

 

 菖蒲が邪気を払うとされる理由は、むかし中国で平舒王が不忠の臣を殺したが、その魂が毒蛇となって禍をもたらしたので、頭部が赤く葉身の青い蛇の形をした菖蒲を裂いて酒に入れて飲んだところ降魔の術を授かり、蛇を退治したという故事によっている。日本書紀にも仁徳天皇三十九(三五一)年、菖蒲を献上させたことが記されている。


 美しい花を咲かせる「花菖蒲」は、アヤメ科のイリス・エンサク・ホルテンシス(虹の神イーリスのような剣形の庭園栽培の木の意)といい、菖蒲とは品種が異なり香りもなく、葉は剣形で似てはいるが菖蒲湯として用いられることはない。


端午の節句には「柏餅」を食べる。

柏の木は新芽が出ない限り古い葉が落ちないので、家系が絶えないという縁起をかついで柏の葉で包んだ柏餅を食べる。柏餅は江戸時代中期頃に作られたといわれる。柏の葉の表を外にするのが味噌入り、裏を外にするのが餡入りという。

 

 端午の節句には「薬玉」を柱に掛ける風習がある。麝香(じゃこう)、沈香(じんこう)、丁字(ちょうじ)などの香料を錦の袋に入れて五色の糸を長く垂れたもので、現在でも中華料理店の店内に飾られているのを見ることができる。香と五色とで邪気を払うとされているが、漢の時代より五行説の影響を受けて五色の糸をかけて魔除けの呪いとした風習が薬玉となり、吹き流しとなって伝えられたものである。



五月節句の主役たち

 端午の節句が平安時代の公家社会からだ武士中心の時代へと移るにつれて、女の子から男の子の節句へと変わり、また菖蒲が尚武に縁起することを述べた。武家中心の時代へ移るにつれて、女の家から男子の節句ヘと変わり、また菖蒲が尚武に縁起することを述べた。武家中心の封建社会にあって男子の誕生、そして健やかな力強い男子の成長と立身出世を願って、五月節句には鯉のぼり、武者人形、鎧、兜が飾られるようになった。


       



                      

  • 2023年3月17日
  • 読了時間: 4分




『花まつり 〈灌仏会、仏生会、降誕会〉』                            


                            今江 美和子



「花まつり・灌仏会」とは、何をするのか?


 花まつりはもともと灌仏会(かんぶつえ。仏生会、降誕祭などとも)と呼ばれ、

仏教の創始者であるお釈迦様の生誕をお祝いする仏教行事です。「花まつり」とも称されるようになったのは明治時代以降のことです。キリスト教でイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマスであるのと同じで、仏教ではお釈迦さまの誕生を祝うのが「花まつり」、ということになります。


 日本のように、中国を経由して伝わった(北伝仏教)国々では、お釈迦さまは旧暦4月8日、インドのルンビニ(現在はネパール連邦共和国)で生まれたとされていますが、その典拠は不明です。日本ではそれにちなんで新暦の4月8日または5月8日に「花まつり」(灌仏会、仏生会、降誕祭)が催されます。


「花まつり」として知られるお祭りの正式名称は「灌仏会(かんぶつえ)」。


 “仏に濯(そそ)ぐ”ことから「灌仏会」と名付けられ、「降誕祭」(こうたんえ)、「仏生会」(ぶっしょうえ)、「浴仏衣」(よくぶつえ)、「竜華会」(りゅうげえ)、「花会式」(はなえしき)ともいわれます。

 「承和七(840)年四月八日に、清涼殿にしてはじめて御灌仏の事は行はしめ給ふ」との記録が残っており、その起源は平安時代までさかのぼるといわれています。また、「花まつり」の名称は明治時代に浄土宗が採用したものとされています。



「花まつり・灌仏会はいつ?」

 

 お釈迦様の生誕が4月8日とされているため、「花まつり」・「灌仏会」はこの日に開催されるのが一般的です。


 ただし、旧暦の4月8日や月遅れの5月8日に開催するお寺もあり、地域によって異なります。主に関東地方では4月8日、関西地方では5月8日に開催されることが多いそうです。



「花まつり」・「灌仏会」では、お寺でどんなことをするのか?


 お寺で開催される花まつり・灌仏会では、さまざまな伝統的行事が行われます。


 お釈迦さまのお生まれになった4月8日に、その誕生を祝う行事です。

花々に彩られた花御堂(はなみどう)の中にいらっしゃる小さなお釈迦さまのお像に甘茶(あまちゃ)を掛けた、という記憶があるかもしれません。これは、お釈迦さまが誕生された際、天から神々が降りてきて祝福のために甘露の水を注いだという経典の説示に由来します。一般的には「花まつり」の呼び名で親しまれています。ご命日に勤める涅槃会(ねはんえ=2月15日)や、悟りを開かれたことを祈念して行う成道会(じょうどうえ=12月8日)と並んで、釈尊三大法要の一つに数えられます。



「花御堂(はなみどう)」に誕生物を安置する。


 この日のために作られた小さな御堂(※仏像を安置した堂のこと)である花御堂に、

右手で天を指した誕生時のお釈迦様をかたどった銅像・誕生仏(たんじょうぶつ)を安置します。


 これは華やかな色や香りを持つ花によって仏を供養するという意味があり、

花御堂は色とりどり華やかに飾られます。

仏が歩く道にまく散華(さんげ)と呼ばれる行いになぞらえたものです。



参拝者が誕生仏に「甘茶(あまちゃ)」をかける。


 花御堂に安置された誕生仏に、参拝者が甘茶をかけます。

こうすることで、体を洗い清め、子どもの身体健全や諸願の成就を願います。

甘茶をかけることで虫よけやまじないにも使われたそう。


 花まつり中、お寺によっては甘茶を振る舞ってくれることもありますが、そもそも甘茶って何?と思われる方も多いでしょう。甘茶とはアマチャの木から作られた、独特な甘さのあるお茶のこと。

ストレートな紅茶に砂糖を加えたような上品な味わいと表現する人もいるとか。



「稚児行列(ちごぎょうれつ)」を行うお寺も。


 稚児行列とは、平安装束モチーフの衣装を着た子供達が行列を作り、街を練り歩く行事のこと。お寺によっては、花まつりに稚児行列が開催されることもあります。             

 生きとし生けるものである衆生(しゅじょう)に教えを授けて下さったお釈迦様の生誕に対する感謝や、そのご利益をいただくことで、子供達の発育の祈願をします。



行列などで見られる「白い象」の意味は?

 

 お寺によって、白い象の置物が登場することがあります。大きさはさまざまで、大きな像の背中の上に花御堂をのせていることも。


「白い象」が神聖な動物として扱われている理由は、お釈迦様の母である摩耶夫人が

“夢の中で六本の牙を持つ白い象を見た”ことでお釈迦様を懐妊したといわれていることから。白い象がお釈迦様を運んできた、と信じられていることに由来しています。


 また、白い象は雨を表し、五穀豊穣を意味するともいわれています。



〈 感 想 〉                                 


お釈迦さまの誕生日は、仏教系の幼稚園に通園していた、

幼かった私の記憶にもしっかり残っています。

子ども心に、色とりどりの花でお釈迦さまを飾り立てたのを覚えています。

 

仏教徒の私は、自宅の仏壇にお参りをする際には、

ご先祖様にばかり気持ちがいってしまい、

お釈迦さまのことまでなかなか意識に登らないのですが、

これからはその大本であるお釈迦さまのことを思いながら、

感謝のお参りしたいと思います。


今月も誠にありがとうございました。

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  • 2023年3月6日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年4月11日





『幸を祈る春の祭典 ・・・ 上巳の節句』                           


                            今江 美和子


                                    

 

 

 三月三日は、華やかに雛人形を飾って女の子の健やかな成長と幸せを祈る行事を行う日で、上巳の節句、桃の節句などという。

 上巳とは、はじめの巳の日という意味で、三月は辰月であるから辰に縁の深い巳の日を忌日として、災厄からまぬがれ、また不浄を除くための祓えを行った。中国では踏青といって古くから除災の風習があり、川辺に出て青い草を踏み、川の流れで禊を行い、酒をくみ交わして穢を祓ったのである。秦の昭王が踏青の折、酒杯を川に流したとき金人が秦の前途を祝したという故事にならって、踏青は曲水の宴へと発展した。


 上巳の節句が三月三日になったのは、重日思想によるもので、辰の月春三月が固定されて、数字を重ねることによって、より強力な神の力が得られるとしたものである。

                  

右と左ではどちらが上か。

 現在、男雛は右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に飾ってあるが、関西の京風で は古式にならって男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)、と逆になっている。

 左か右か。

左上位か右上位かを考えると、中国では戦国時代に兵事及び車上のみは例外として左を優先していたが、他の全ては右優先の風習であった。漢の時代になって統一されて右上位となり、漢語に表れる意味はすべて右上位である。


 「右」には「貴い」「大切な」などの意味があり、右(大切で便利なもの)、

右姓(貴い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(最も信頼している部下)、右に出る(他よりすぐれている)などの語がある。

 一方「左」は「いやしい」「低い」などを意味し、左遷(官位を下げること)左(いやしいこと)、左傾(心安らかでないことから急進的な思想)、左前(物事が順調に行かなくなること)などがある。

 例外として左を虚しくす(車上では左を貴ぶので左の席を空けること)があるが、これは賢者を尊ぶ札である。また、左言(道理に反した言葉)、左道(邪道)などの「左」は「そむく」「たがえる」の内容を持っている。

 その後、六朝の混乱期を経て唐の時代になって上下が逆転し、左上位となった。日本の文化は唐の文化に影響を受け、平安時代に確立した日本の制度は左優先となった。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級である。

 文化面でも、上手は左(客席から舞台に向かって右)、下手は右(向かって左)となっている。


 内裏雛の話に戻すと、東福門院が娘 興子の幸せを祈ってつくった座り雛は、男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に描かれてある。興子内親王は天皇になられたので、女帝は上位であるために、女雛が左(向かって右)に座っている。これは唐制になった左上位思想の表れである。この左上位の風習はそのまま現代に引き継がれて、男性優位のため、関西では京風の内裏雛は、向かって右に男雛、向かって左に女雛が並んでいる。


 ところが関東式の内裏雛は、向かって左が男雛、むかって右が女雛である。

現代の結婚式の披露宴をみても、高砂の席に新郎は向かって左、新婦は向かって右に座っている。日本の結婚は古来より男子主体の家督相続的なものであるため、男子優先で行われてきた。結婚式に新郎が向かって左に立つということは、実は右に位置することであり、男子優先とすれば右上位ということになる。それでは関東式の内裏雛や現代の結婚式などは、右上位ということなのだろうか。


 昭和三年十一月十日、昭和天皇が京都御所で即位の御大礼をあげられた際の写真が新聞に掲載されたが、そのときは天皇が右(向かって左)、皇后が左(向かって右)に立たれていた。

事情のあることだったのだろうが、古式はここに終わりをつげることになった。天皇神聖の時代を背景として、それ以来男子が右(向かって左)、女子が左(向かって右)という形が                          成立したのである。もっとも明治七年、新年の儀式が宮中で行われた際の写真が発刊されたばかりの新聞に載ったが、明治天皇は西洋式を採用され、向かって左に座っておられる。西洋式は右優先だからである。

 

 また、明治二十三年二月十一日(紀元節)に小学校に御真影が下賜されたが、明治天皇は向かって左に、皇后は向かって右になるように写真が置かれている。大正天皇、昭和天皇・皇后の御真影もこれにならっている。文明開化という時代の流れとともに、皇室中心主義の政策から生まれたものといえよう。

 しかし、現在のような関東式の内裏雛の位置=男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に定着したのは、昭和になってからのことである。

 おもしろいことに、昭和二十年、第二次世界大戦直後、連合軍司令部のマッカーサーによって、男雛は向かって右、女雛は向かって左に、つまり西洋式にするよう指令をうけたという。女性優先の考え方に従って女性を大切にせよという意味からだといわれている。

 結論として、唐制にならった左上位の古いしきたりはそのまま京風として温存され、昭和御大典以来それに則ったというのが関東風ということができよう。


「桃」の字の不思議な聖性      

上巳の節句は桃の節句といわれる。桃がちょうど盛りの頃で桃色の美しさを愛でる意味もあろうが、「桃は五行の精なり」といい、桃には古来より邪気を払い百鬼を制すという魔除けの信仰があった。

「桃」は兆に木偏がついた会意文字であり、兆と同じ音を持つ形声文字でもある。

中国で昔、狩猟民族が天意を占うときに、亀の甲や獣骨に占い字(卜辞)を刻んでそれを火にあぶると、甲羅や骨にひび割れができる。そのひびの入り方によって古代人は神意を判断して吉凶を占った。そのひび割れをかたどったのが「兆」という象形文字である。「兆候(きざし)」「前兆(しるし)」「兆占(うらない)」「兆見(まえぶれ)」などの言葉からもわかるように、兆は未来を予知するかたちを表している。


「桃」は兆しを持つ木とされて、兆しを持つ木は未来を予知し、魔を防ぐという信仰が生まれたのである。したがって鬼退治物語の主人公は、柿太郎でも梨太郎でもなく、桃太郎でなければならないのである。なお、桃太郎が二つに割れた桃の中から生まれてくるのも「兆」の字が「割れ目」を意味するからである。


また、桃は春早くから花を開き多くの実を結ぶ、多産な木である。二つに割った桃の実は女陰に似て、聖なる呪い要素を持っている。聖なる多産な桃が凶を払い魔を防ぐことによって、女の子の末永い幸を祈る行事が桃の節句だといえよう。

                   


【 感 想 】

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 子どもの頃から親しんできたお雛様に神聖な願いが込められていることを知り、

眺める時の思いも変わる気がしてまいります。


 菜の花は、二年前に亡くなった義妹のために供えました。

義妹も共に祝いたかった雛祭り。

三月三日にしまう時まで、充分に眺め、楽しませていただきたいと思います。


今月も誠に有難うございました。

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